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『月刊マクロビオティック』3月号おすすめ記事
マクロビオティックとの出会い
米国のロースクールで学んだ後、ウォール街で現地法律事務所に勤めたり、当時の西ドイツ・デュッセルドルフの法律事務所に勤務した後帰国し、紆余曲折の後、自分の職場をつくった。日本を出てから7年が経っていた。東京を本拠とする国際法務を中心とする法律事務所であった。その時、10年以上前に訪ねたことのある永楽倶楽部に入会した。すっかりこじんまりしたクラブに変わっていたが、社交の場として顔を出すことにした。
いつであったか90年代初期か、永楽倶楽部から「久司道夫」という人がマクロビオティック食養法の講演をすると知らされた。なぜか興味を持って行ってみたいと思ったが、当日の仕事は忙しく、仕事が一段落して顔を出した時には久司先生は立ち去った後であった。それでも事務局の人が久司先生の著書を売っていた。私は一冊購入して、その場でパラパラと数頁目を通した。
再び忙しい生活に戻った私は、本のことは忘れてしまった。98年の確定診断の後、方法論に悩んだ私は、ふと、その本のことを想い出した。「確か、がんか何かを食事で治したとか書いていたかな」と思い出し、自宅の本棚を漁った。ほこりを払うほど汚れたその本には、すぐに辿り着いた。
一晩で一気に読み、翌日から本を売った会社に電話して「この食事法の指導をできる人は日本のどこに行けば会えるのか」と尋ねた。指導できるのは、久司道夫氏本人のみであると告げられ、ボストン在住の久司先生に初めて電話をした。98年4月7日であった。この日が私のマクロビオティックの第一日目となった。
久司先生と会う
玄米菜食を始めたのは、電話を切った後、昼食に入った玄米自然食の食堂であった。魚も出す店だったが、有機食材をできるだけ取り入れている店で、白砂糖は使わず、マクロビアンでも病気でなければ充分楽しめる店であった。職場から歩いて5分程の位置にあった。
夕食を家で食べると伝えていたのに、家では玄米食は出てこなかった。家内と少しやりとりがあったが、まだ小中学生の2人の娘たちはポカンとして私たちの会話を聞いていた。私は仕方なく胚芽米と野菜のおかずのみに手をつけた。翌朝も玄米が出てこない中、私はすぐに自ら圧力鍋を購入し、玄米を入手して自分で炊事を始めた。
当時80歳位の母は、80q離れた地から電車で訪ねてくれて、週末を共に過し、玄米食・有機野菜を料理してくれた。母は知ってか知らずか、私の話に耳を傾け、私がやろうとしていることを何としても手伝いたいという情熱を持ち合わせていた。
この風変りな食事法を説く久司道夫という人と会うまでは、固い決意があったわけではなかった。4月下旬、同氏が訪日中の一夕、都内のホテルで会う手配ができた。家内と母を同道して約束の場所に行くと、永楽倶楽部に久司先生を紹介した理事の方と、私に本を売った事務局の方も来ており、皆、真剣なまなざしで私たち家族を囲んだ。
家内は一時間半ほどの会話を横でメモを取りながら聞いていた。久司先生の人物、経験、経歴、情熱と自信に満ちた態度から、私は少し安堵の気分になった。私の母の固太りを「陽性体質」と評したりして笑った。その後3ヵ月に一度、つまり年4回は、必ず万難を排して面会を続けることになる。当時70歳代前半の久司先生は、若々しいエネルギッシュな講演を来日の度にこなしていた。
医師たちへの手紙
手術を勧めた主治医のO氏、セカンドオピニオンを出し、手術を勧めたT氏、勉強会の仲間の肝臓専門医で心配してくれていた友人S氏、S氏から紹介された画像診断専門医でがんセンター柏に居たN 氏にそれぞれ手紙を書き、自分の心境とマクロビオティック食養法でやってみるという決意を伝えた。何人かは、翻意して手術を受けるように、
と返事をくれた。私も恐いもの知らずで、マクロビオティックを研究して、ぜひ医学療法に生かして欲しい、とも書いた。
食養を続けていく中で、今まで医師として忠告してくれた人たちから黙って離れていくのは非礼なことのように思えた。今思えば、唐突とも思える要求をしていたことになる。
マクロビオティックは必ずしも科学ではない。哲学のように思える。医学は一応科学を標榜している。科学とは客観性、再現可能性、論理性、データによる立証の可能性を土台として成り立つ。医師たちが受けてきた教育からは到底受け容れることはできない体系でマクロビオティックはできている。それは後から分ったことで、当時の私は必死に肺がん克服の解を探し求めていた。
この食養法も医師たる者、その使命に忠実ならば学習の対象とすべきではないか、と単純に信じた上での行動であった。実は、医学が科学的と言えない治療法をたくさん用いていることは後で知ることになるが、その当時は、天真爛漫に医学を科学そのものと信じていた。
マクロビオティック実行の鍵
15年以上経った今も、喉の違和感や身体に出る湿疹に悩まされることは多い。過去にも倦怠感が半年位続いたりしたこともある。7年目の最終に受けたCTスキャン検査では、肝臓にしこりが映像として撮られており、肝臓がんの疑いがあるので、精密検査を示唆されたりもした。
6年前には、マッサージで知り合った医師から、肺がんが拡大している恐れがあるからすぐに精密検査を勧める、という電話をいただいたこともある。これらの医師は、自分の拠って立つ医学、または医学らしき予知法により、色々なことを言う。結果論だが、肝臓の検査も肺の検査もそれ以上行うことなく、食養と疲れない毎日を過すことに徹して
今に至っている。
医学という体系から見える問題意識は、ある分野には一定の有効性はある。しかし、あまり有効性がないか、むしろ検査や治療法が健康を害してしまう場合もある。それは、医学の出てきた背景や人類が長い間置かれた環境と無縁ではないように思う。
人類は生まれてから何十万年もの間、栄養不足と飢餓の中で生きてきている。現在の日本のような栄養過多は、人類史として初めての経験である。第一次大戦の頃(1914年)までは、人の平均寿命は50歳位であった。その頃までに、医学もレストランの食事のメニューもできあがっており、今もそのまま使われている。病気をすればすぐに治して、社会復帰しないと家族を養えない。だから速効性のある治療法を考えることになる。50歳を過ぎた者が外食をすると、油っこ過ぎるし、量的にも多過ぎる。医学にとって、豊かさ故に起るがんという病気は、未だ成功体験のない難しい領域である。
マクロビオティックの視点からは、がんは食事の摂り過ぎや精神ストレス、身体の疲れが自律神経や代謝機能を狂わせ、低くなった免疫機能が機能不全を起こすことによって発生する細胞の異常増殖である。
恐らく各個人の身体中で一番弱い個所に発生し、身体全体の異常を表現して警告するものである。過剰栄養や精神ストレスの蓄積は血液の汚れや質の低下を惹起するであろう。血液の質とがん細胞発生のメカニズムは、生物学や医学では不明である。要は分からない、とされる。しかし我々の直感や伝承医学では、血液の汚れは重要な原因のひとつと捉えている。疲れを溜めないことはもちろん、精神ストレスを溜めないことも正常細胞にとって重要な要素で
ある。
こう捉えてくると、がんの発生原因は身体全体の状況に起因するのであって、部分ではない。生活習慣病という名前はその意味で正せいこく鵠を得ている。では、細胞を部分として除去したり、化学的に殺したり、焼いたりする現代医学の方法は、がんの治療法として完全に外れたところで空回りしているということにはならないであろうか。
細菌学で飛躍的に社会の信頼を得た19世紀後半に活躍したパスツール(1822〜1895)やコッホ(1843〜1910)などの細菌学者は、細菌を殺すという方法で病気を治すことに成功した。20世紀後半の医学は、その思考の延長線上に
がん細胞憎しという発想で進行している。ひとつの成功体験が次の成功を阻んでいると言うべきか。優れた検査技術は日進月歩だが、人間の健康を身体全体として捉えず、部分として治す、または対症療法を行うという方法論は、ことがんのような全身病には有効性はないのではないか、と思う。さすれば万一の場合、医学に頼って治そうとする思考方法を放棄することである。
マクロビオティック思考法、即ち毎日の体調を自分で感じながら、食や運動・瞑想を含めて、自己管理していく、自分が自分の主治医になること以外に良い方法はない。マクロビオティック実践と継続の要諦はこれに尽きるのではなかろうか。
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小島 秀樹/こじま ひでき
1947年生まれ。早稲田大学法学部卒、1970年司法試験合格。
1973年に弁護士登録。フルプライト留学選考に合格。1978年米国サザンメソジスト大学ロースクール修士、1979年米国ジョージタウン大学ロースクール比較法修士。
1981年ニューヨーク州弁護士登録。東京の湯浅・原法律特許事務所、ニューヨークのリード・アンド・プリースト法律事務所、旧西独デュッセルドルフのホイキング・キューン・ヘアホルト法律事務所、各勤務を経て、1984年小島国際法律事務所を設立。 |
※この記事は「月刊マクロビオティック」で連載しています。
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