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『月刊マクロビオティック』おすすめ記事
コラム:桜沢如一のコトバに学ぶ
「自然という書物」
日本CI協会刊「マクロビオティック誌」連載
2015年10月号掲載(第61回目)
寺子屋TAO塾代表 波多野毅
「(書物は)二百年も二千年以上も読まれている様なものなら先ず間違いはない。日本人の数千年の食物ー米、黍き びなどは第一値も安いし、味もいい。一生食っても飽きがこないことがその証拠だ。塩なんかは数万年この方の食物だし、空気や日光や、水に至ってはもっと古い。古典的な食物ほど安いのだから有難いも
のだ。しかも、タダのものが最も貴重な食物なのだから面白い。書物も全く同じだ。たとえ五銭十銭の本でもお金を出して買ったものは、それだけ貴重でないものだ。
つまり、精神の食物の値というものは、その本の定価に逆比例するのだ。書物の中で一番安くて、一番大きくてしかも貴重で、おまけに一生かかっても食べきれないのは『自然』という書物だ。尊徳の所謂『天地の経典』だ。ところがこの本は中々歯が立たない。これを噛みしめ、噛み砕くには特別な歯が入用である。それが『無双原理』というコトのハである。」 (永遠の子供)
かつては、日本各地の小学校に薪を背負いながら本を読んで歩く二宮金次郎の銅像が建てられていた。あのような姿で実際に歩いていたかどうかの真偽はともかく、寸暇(すんか)を惜しんで読書にふけった彼の勤勉性を表した象徴であろう。
しかし、その読書家の二宮尊徳は「我が教えは書籍を尊ばない」と言う。「二宮翁夜話(に のみやおうやわ)」の冒頭にはこんな歌が読まれている。「音もなく 香(か)もなく 常に天地(あまつち)は書かざる経を繰り返しつつ」
この歌こそ、尊徳の教えの真髄であろう。本当の智慧とは、書物からではなく、自然からこそ学ぶものであると彼は語るのである。彼はそれを「天地の書かざる経典」と詠んだ。
世の中に「道」を説いた書物は数えきれないほどたくさんあるが、完全なものはないと断言する。なぜならば、釈迦も孔子も所詮「人」であり、論語もお経も、皆「人」が書いたものであるからと。
食養を通じて「道」を説き続けた桜沢も、卓抜なる読書量と執筆量を誇ったが、尊徳同様「自然」を広義の「書物」と呼び、歯ごたえのある最高の「食物」ととらえた慧眼(けいがん)に着目したい。
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波多野 毅 /はたの たけし
(一般社団法人TAO塾代表理事・熊本大学大学院特別講師)
1962年熊本県生まれ。
一般社団法人TAO塾代表。修士論文のテーマは「食の構造的暴力と身土不二の平和論」。現在、熊本大学紛争解決平和構築学研究室客員研究員。鍼灸学生時代、日本CI協会、正食協会にてマクロビオティックを学び、93年Kushi Institute勤務。笑いながら東洋医学の哲学を学べるエデュテイメントを展開中。著書に「医食農同源の論理」「自遊人の羅針盤」など。
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※この記事は「月刊マクロビオティック」で連載しています。