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【ジャーナルWEB公開記事】2025年秋号「論考」二村 淳子

桜沢如一『花の本』試訳と解題 二村 淳子

経緯

今から12年前のことでした。私が桜沢の『花の本(Le livre des fleurs)』に向き合うきっかけを与えてくれたのは、ベトナムのファム・クイン(Phạm Quỳnh,1892–1945)という人物です。ベトナムの近代化に貢献した知識人で、多言語(ベトナム語・フランス語・中国語)雑誌『南風雑誌』の主筆であり、ベトナム初の美術運動を牽引した人でもあります。仏語も漢文も達者な彼は、文化の力でベトナムのフランスからの「独立」を果たしたいと望んでいました。

ファム・クイン氏

ファム・クイン氏

私が、Sakurazawa という名前を初めて目にしたのは、このクインが1931年10月9日に発表したフランス語新聞の記事「東洋の理想(Les idéaux de l‘Orient)」の中でした。これは、岡倉天心の『東洋の理想』の書評です。この中で、ファム・クインはSakurazawa を登場させ、「哲学者」と紹介し、桜沢の仏語著書『東洋哲学及び科学の根本無双原理(Principe unique de la philosophie et de la science d’Extrême-Orient)』を引用していたのです。クインは桜沢の著書『東洋哲学及び科学の根本無双原理』の批評も同新聞に長々と掲載しており(1931年10月2日)、2人の間に直接的なやりとりがあったことが仄めかされています。

ベトナムの仏語日刊紙『東法日報』1931年10月9日。 左の論壇欄にクインの岡倉書評。

ベトナムの仏語日刊紙『東法日報』1931年10月9日。左の論壇欄にクインの岡倉書評。

以上のような経緯で、私は、桜沢如一が、1920~40年代、フランスとベトナムと日本の知的交差路に位置していた人物だったということを知りました。

試訳内容紹介

試訳すべてをこの場でご紹介する紙幅がないので、下記から無料でダウンロードいただきたいと思います。

【関西学院大学リポジトリ】
https://kwansei.repo.nii.ac.jp/records/2001256

私が試訳したのは、『花の本(Le livre des fleurs)』の初版(1935年)の最終章、「花の哲学(Philosophie des fleurs)」です。『花の本』は、全215ページ(カラー2ページ分を含む)、ペーパーナイフで切り開きながら読んでいくフランス装丁本で、29の図版が挿入されています。表紙には「Prix Harada(原田賞)」受賞」という記載があります(東亜考古学会を興した原田淑人のことでしょうか?)。この本の序盤と中盤は、いけ花のことについて述べられています。いけ花の歴史、日本の季節の花々の紹介、流派、盆栽の紹介などです。最終章「花の哲学」は、恐らくは、桜沢の最も書きたかった箇所でしょう。この章は、「花とは何か」という問いから離れ、日本の「藝術」そのものを俎上にし、東洋と西洋の藝術観の比較が展開されています。この中で、桜沢は拈華微笑の説話を引用しています。

『花の木』の初版

『花の木』の初版

 

ある日、釈迦牟尼は自分を取り囲む弟子たちに、「今日は仏教の奥義を伝えたい」と言い、一輪の花を差し出したという。誰も理解できなかったが、ただ一人、それを見て微笑んだ弟子がいた。 「わかりましたね。私の体得した教法は今すべてあなたに伝えました」と釈迦牟尼は言った。

悟りは文字や理論によって伝わるものではないという不立文字を教えるために禅宗で用いられるこの説話を、桜沢はフランス語に訳し、西洋の審美観に苦言を呈します。西洋は言葉というものに重きを置きすぎではないか、と。海、川、山、平原…。あらゆる自然と同様、花は雄弁に語っている。自然の前では人間の拙い言葉など取るに足りないではないか、と。

また、桜沢は、人間中心主義に基づいたルネサンス的な価値観を普遍だと信じる西洋の藝術観は偏狭だと論じます。

日本の古い画に、逆遠近法が見られるのは驚きに値する。手前の物体が最も小さく、 奥のものが最も大きく描かれる。立方体は奥の面が非常に大きく、手前の面が小さくなるような遠近法である。なぜこのような特異な遠近法が用いられたのかおわかりだろうか。 深遠なもの、目に見えないものに興味を置くという特徴ゆえである。西洋人は光の中で見えるもの、触れられるものだけに目を向けるが、東洋人は手の届かないものに注意を払う。(中略)日本的な意味における「藝術」の定義は何だろうか?六世紀の有名な美学者である謝赫は、その美学を説いた著にて、「それは気韻であり、宇宙のリズムへの生動」だと述べている。こうしたことは、多くの西洋人には理解不能に思えるかもしれない。説明が最も難しいのは、謝赫の言う「宇宙」が、日本の藝術家が没頭する非物質的で不可思議な美しさを備えた、目に見えない世界のことを指していることである。

このくだりは、夭折した極東美術研究者のラファエル・ペトルッチ(Raphaël Petrucci,1872-1917)の『極東芸術における自然哲学』(1911年)を彷彿とさせます。最終章「花の哲学」での桜沢の口調は、愛国的で、挑発的に感じられます。この裏には、当時の黄禍論、とりわけ『西洋の攻防』を記したアンリ・ マシス(Henri Massis)による日本文化批判があったと私は考えます。マシスは著書の中で岡倉天心を批判しているのです。

意義

桜沢がこの『花の本』を出版した1935年といえば、かつてフランス美術界を席捲した「ジャポニスム」ブームは過ぎ去り、近代日本は帝国として膨張し続けていた時期です。『東洋哲学及び科学の根本無双原理』の成功があり、当時、桜沢の名前は既にパリ文壇においては無名ではありませんでした。しかし、なぜこの時期に、なぜ「花」について、フランス語で執筆したのでしょうか。

ひとつには、先述した黄禍論者アンリ・マシスへの反論という理由があるでしょう。もうひとつは、岡倉の『茶の本』との関連です。桜沢は岡倉天心の愛読者でした。『花の本(Le livre des fleurs)』なる書題から連想されるのは、岡倉の『茶の本(Le livre du thé)』です。美術批評家として知られるガブリエル・ムレー訳の仏語版『茶の本』は、長谷川路可の挿絵入りで1927年に出版されています。『茶の本』の第六章は「花」にささげられていますが、桜沢は、ここを発展させたかったのでしょう。欧米の物質文明に対する東洋の精神文明を説くという点においては岡倉と桜沢の著作は深く共鳴し合っていますし、この桜沢の『花の本』の締めくくりは、「一杯の茶」になっています。『花の本』は『茶の本』から生まれたと言っていいのではないでしょうか。

当時の新聞書評などを渉猟したかぎり、作家のKIKOU YAMATAがこの『花の本』を高く評価していますが、最初のフランス語著書『東洋哲学及び科学の根本無双原理』ほどの影響はなかったようです。しかし、のちにベトナム語へと翻訳され、『華道(Hoa Đạo)』なる題名でベトナムに受容されていきます。べトナム文学研究者田中あきさんによれば、カイフンという作家は岡倉の『茶の本』の「花」の章を1940年にベトナム語訳して雑誌に発表しているそうです。「花」と「茶」は、東洋精神の象徴だっただけでなく、対西洋、対フランス植民地主義の象意だったのだと思うのです。

※訳出の際、桜沢如一研究家の安藤泰弘氏、桜沢如一資料室長の高桑智雄氏両氏に多くの示唆とご指摘をいただきました。この場を借りてお礼を申し上げます。
※本研究は科研「ポストジャポニスム期の日本藝術論」(24K03453)の助成を受けました。

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著者プロフィール

二村 淳子/にむら じゅんこ
関西学院大学教授。比較文化論、藝術・美学、文化研究を専門とする。東京大学大学院総合文化研究科博士課程中退。博士(学術)。20世紀初頭にフランスで活躍していた東アジアの画家たちの作品を研究。代表著に『ベトナム近代美術史』(原書房)、『クスクスの謎』(平凡社新書)、『フレンチ上海』(平凡社)など。

二村淳子

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