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【第13回】資料で振り返る桜沢如一の思想と生涯

※月刊「マクロビオティック」2022年1月号より転載
※第27回以降は「マクロビオティック ジャーナル」にて連載中

第13回:壮年期⑦

ナビゲーター:高桑智雄(桜沢如一資料室室長) 協力:斎藤武次、安藤耀顔

生涯の伴侶との出会い

今回紹介する資料は、桜沢が帰国して間もない1936年(昭和11年)に京都の「一燈園」で撮影された44歳の時の写真で、左の人物は一燈園の創設者である西田天香(1872年~1968年)です。

西田天香/桜沢如一

西田天香は「自然にかなった生活をすれば、人は何物をも所有しないでも、また働きを金に換えないでも、許されて生かされる。そしてそこから世の争いの種が除かれ、平和な社会がもたらされる」と説いて、無所有・下座・奉仕の生涯を送った実践思想家で、当時一燈園には天香を慕って、和辻哲郎、徳富蘆花、谷口雅春、倉田百三、尾崎放哉などが出入りしていたそうです。

桜沢は帰国と共に食養会の再建に乗り出しながら、さまざまな思想家、宗教家、活動家と活発に交流をしていたようです。そしてその中に「たなすえの道」という手のひら治療の大家、江口俊博(1873年~1946年)がいました。江口は手のひら治療の基本に食養があるとして食養会の活動に参加していて、ちょうどこの写真の年、恵比寿にある江口の道場に桜沢が訪れた時に、生涯の伴侶となる田中さなゑ(リマ)と運命的な出会いをします。

当時38歳だったリマは夫との関係がうまくいかず、体重が30キロくらいまで痩せて、江口の治療を受けていたところでした。リマは桜沢と出会い食養を実践することで健康を取り戻し、桜沢に見初められ1938年(昭和13年)に結婚します( 正式に籍を入れたのは戦後になってから)。

桜沢の4度の結婚の失敗

桜沢は子どもの頃、易者に「女難の相」があると言われ、実際、桜沢の結婚は目覚ましい社会活動とは裏腹に、失敗の連続でした。桜沢はリマとの結婚の前に4回の結婚を失敗したと言っています。桜沢の最初の結婚は、神戸時代に出会って大恋愛の末、親の反対を押し切って1920年( 大正9年)頃に籍を入れた中西栄子でした。栄子との間には2男2女に恵まれますが、すぐに結婚生活は破綻し、栄子は新丸子の実家へと逃げ帰ってしまいます。

するとそれに入れ替るようにして、1925年( 大正15)頃には当時住んでいた中野の家に、両親から継母マサの姪である高橋し奈という女性が送り込まれてきます。桜沢は1年位でし奈を両親の世話を理由に京都へと追い返してしまいますが、京都での講演時やフランスからの帰国時には会っていたようです。

また、フランスにいた頃はハンガリー人の女学生と一ヵ月ほど生活を共にし、帰国後すぐに元教員の離婚歴のある女性と一緒になったとも語っています。( し奈との間には戸籍上、3男2女の子どもがいることになっていますが、このハンガリー人との間の子や元教員の3人の連れ子の認知などの可能性もあり、現在調査中です)。

ちなみに桜沢が「結婚」という言葉を使う時は、戸籍上籍を入れたということではなく、夫婦生活を開始したという意味で使っているようです。戸籍上結婚したのは、中西栄子、高橋し奈、田中さなゑの3名であることが資料室の資料でわかっています。

桜沢の結婚と子ども
年代年齢結婚子供
1920年(大正9年)28歳中西栄子と結婚
1921年(大正10年)29歳長女、孝子生まれる(栄子)
1924年(大正13年)32歳長男、忠一生まれる(栄子)
1925年(大正14年)33歳栄子、実家の新丸子へ次女、信子生まれる(栄子)
1926年(昭和元年)34歳高橋し奈が中野に来る三女、道子生まれる(調査中)
1927年(昭和2年)35歳栄子と離婚成立二男、良介生まれる(調査中)
次女、信子亡くなる
1928年(昭和3年)36歳高橋し奈と籍を入れる
し奈を京都へ帰す
三男、信一生まれる(栄子)
1929年(昭和4年)37歳四女、ふじ子生まれる(調査中)
1930年(昭和5年)38歳四男、誠一生まれる(ハンガリー女性の子、カズか?)
1934年(昭和9年)42歳ハンガリー女性と暮らす五男、禮雄生まれる(調査中)
1935年(昭和10年)43歳元教員の女性と一緒になる三女、道子亡くなる
1936年(昭和11年)44歳田中さなゑ(リマ)と出会う
1938年(昭和13年)46歳リマと結婚
1942年(昭和17年)50歳五女、眞里子生まれるが(リマ)
幼少で亡くなる
1947年(昭和22年)54歳リマと籍を入れる
※この結婚年譜はあくまで現資料から推定されるものです。※子どもの( )内は母親です。

「食養人生読本」の理想と現実

桜沢は自分が幼少から寺や茶屋に預けられて育ったことや自身の社会活動の多忙さ、また明治生まれという男性の気質から、自分の子どもを自分の手で育てようという価値観は、あまり持ち合わせていなかったようです。栄子と結婚して長女が生まれますが、すぐに京都の両親に預け、栄子を連れて渡仏してしまったり、栄子が逃げてしまった後は、し奈に長男、次女の世話をさせたり、し奈を京都へ返してしまうと、今度は長男、次女を栄子の元に返したりと、その時々の都合で子どもをどこかへ預けるといった状況でした。そして1929年(昭和4年)には、すべての子どもたちを預けて単身渡仏してしまいます。

そのような子育ての姿勢が影響したのか、桜沢は次女、信子を3歳で、三女、道子を10歳で失います。特に道子はフランス人に預けられ育てられていた中での急死だったそうです。もちろん乳幼児の死亡率が高い時代ではあるのですが、食養指導家としての桜沢にとって、自分の子どもの死が大きな十字架になっていたことは確かでしょう。

またリマと結婚後、大磯で子どもを預かるにしても、弟子たちと同等に扱い、決して自分の子どもを優遇することはなかったそうです。このような桜沢の実生活上での結婚や子育ては後世、その思想とのギャップからたびたび議論の的になってきました。特に桜沢は、1937年( 昭和12年)1月より「食養雑誌」にて「食養人生読本」の連載を開始しますが、そこで語られる理想の恋愛、結婚、家庭、育児は、およそ桜沢の実生活とはかけ離れた印象を与えます。

しかし、この「食養人生読本」の連載に、リマとの出会いが大きな影響を与えていたと想像を逞しくするなら、少し違った解釈もできるかもしれません。桜沢は理想の女性として「すなおさが第一です。ゆかしさ、つつましさ、優しさ、忍耐力、信念、几帳面さなど、いわゆる女らしさがあれば、まことに理想的なものでしょう」と、どこかリマを想定して書いているような趣があります。そしてこ連載は、ちょうどリマと結婚する年の1938年( 昭和13年)8月まで続きます。

もしかしたら「食養人生読本」の連載は、桜沢の今までの実生活の悔恨とこれから新しい生活を共に歩みたいというリマへの公開ラブレターだったのかもしれません。

著者プロフィール

高桑 智雄/たかくわ ともお

桜沢如一資料室室長。
1970年生まれ。2001年に日本CI協会に入社し、桜沢如一の陰陽哲学に感銘を受ける。
故・大森英櫻のアシスタントを担当した後、フリーランスとして独立。
2011年より桜沢如一資料室の立上げ、運営に携わる。
編集・執筆に「マクロビオティックの陰陽がわかる本」「マクロビオティックムーブメント」」など。2015年発行の人気書籍「マクロビオティックの陰陽がわかる本」の編集者であり、 月刊マクロビオティック・コラム「Café de Ignoramus」連載中。

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