Profile

桜沢如一の略歴

桜沢如一資料室|略歴

桜沢如一の略歴と自筆の経歴書を紹介します。

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年齢 事項
1893明26 110月18日京都市東山区祇園建仁寺の近くで生まれる。
1906明39 14母・世津子死去。行年32才。
1908明42 16肺、腸結核をはじめ、多くの病気で苦しむ。
1912大1 20石塚左玄の食養法により健康を回復。
1913大2 21京都市立第一商業学校を苦学で卒業。神戸の南米輸出入商・滝波商店の小僧となる。同時に、神戸仏語学校第2学年に入学。(神戸時代始まる)
1914大322第一次世界大戦のため、閉店。職を失う。4月、フランス領事シャルパンティエ氏の推薦によりロンドン市ウォーム社のチャーター船「万栄丸」事務長となり、第一次大戦中のインド洋、地中海へ、初めての遠洋航海に出る。(一年余)
1915大423神戸貿易商・仲桐商店支配人となる。
1916大524社団法人食養会に入会。雑誌「食養雑誌」に投稿を始める。
1917大625貿易商社・熊沢商店神戸支店長となり、主に羽二重を輸出。隔年に欧米をまわる。
1919大827ローマ字文芸雑誌YOMIGAERIを創刊。「大和言葉のよみがえり」を提唱。ローマ字による国字革命運動の先鞭をつける。
1920大928日本最初の放送機と受信機を、フランスより持ち帰り、ラジオ放送局の出発点となる。また、バルヴォ撮影機50台、デブリ社の高速度、微速度撮影機、生フィルム(コダック)も初めて輸入。小型カメラや映写機を考案し特許をとる。
1924大1332大震災により、横浜本店壊滅を期に商売から手を引き、「食養会」「日本ローマ字社」の仕事に一身を投ず。
1927昭235食養会監事に就任、「食養雑誌」編集主任となる。
1928昭336第1回無双原理大学講習を夏、北海道で開く。
1929昭437十数年研究した自説の「無双原理」を世界に発表すべく、四月シベリアを横断し、単身パリへと無銭旅行。どん底生活をしつつ、ソルボンヌ大学、パスツール研究所に学ぶ。一方、東洋医学(鍼灸)、華道、柔道、句道、造園技術等の論文を各方面の新聞雑誌に発表する。
1931昭639パリ・ヴラン社から仏文の最初の本「東洋の哲学及び科学の無双原理」と「花の本」を出版。滞欧中毎年一回は帰国、そのつど迫りくる東亜の険悪なる風雲を一掃すべく軍令部、参謀本部に出頭、警鐘を乱打する。
1935昭1043フランス人秘書クキーユ氏を伴い帰国。超小型飛行機「空の風」(ブー・デュ・シエル)の専売権を持ち帰る。翌年二月飛行。国産化される。
1937昭1245社団法人「食養会」の監事、やがて会長に就任。月刊「食養」(明治40年11月創刊)は全戸中に普及、購読者1万人の盛況をみる。「食物だけで病気の癒る・新食養療法」(実業之日本社9は超ベストセラーとなる。
1939昭144710月19日、食養会本部(芝田村町)付属の瑞穂医院(麻布霞町)閉鎖さる。「食養」11月号に「食養会よ!さようなら!」を発表し去る。
1940昭15489月、滋賀県大津市に無双原理講究所を創設。第一回、健康学園を夏、宇治山田虎尾山と信州菅平高原で開く。
1941昭16493月「健康戦線の第一線に立ちて」の書により露骨に反戦論、日本必敗亡国論を展開、10万部以上頒布、(10ヶ月目に予言通り、第二次世界大戦開始)。この書の扉に日本の敗戦の可能性を警告(4年後に実現)。
5月「最後にそして永遠に勝つ者」を出版、英国のインド放棄、その方法と条件、ガンジーの暗殺を予言(5年後実現)。
6月「日本を亡ぼすものはたれだ」の書が、反戦思想として発禁さる。紙型および在庫二千冊余没収、警視庁、検察庁、愛宕署、西神田署等にて再三留置され、残虐なる取調べを受ける。
1943昭18517月頃、軍部の圧迫、右翼暴力団の迫害、日に日に増大する。
1944昭19527月1日、日本敗戦近きを断言し、第一戦にあるPU青年学徒40名に「オシモノヲツツシミ、サイゴニカツモノタレ」(上官の命に反抗すとも、必ず生きて帰れ、の意)の電報を発信。
11月末、ソ連に日米の仲裁をさせんと密航してハルビン到着。満州国教育司長・田村敏雄氏より旅券を得て、単身馬にのって12月のソ連国境を突破せんとす。この時内務省より「反戦論者桜沢如一をタイホせよ」の入電あり、警視長官、田村氏に引渡しを迫る。一方、特務機関長土井将軍の「即刻、桜沢如一を銃殺すべし」の命により、憲兵隊に追求さる。田村氏、ニューハルビンホテル近藤繁司両氏の御厚意により、危機を脱出し、一旦帰国して妙高温泉に隠れ、新計画を策定。
1945昭20531月25日早暁、警官隊の包囲を受け、午前10時ついに逮捕され、新井署に送られ、地下の暗室に放り込まれ、3ヶ月間零下十余度の暗室にて緩慢な殺人法を試みられ、極度の衰弱に陥り、危篤に瀕する。3月末、同署員の肩にかつがれ新潟署に移され、残酷なる連続無傷拷問を受ける。6月末、突然釈放される。左足の自由及び、視力80%失う。7月初め、帰宅後飯村穣氏、帝都防衛最高司令官に任ぜられしを知り、クーデターの計画を策定して、急ぎ上京途中、諏訪市長・藤森清一朗氏を訪ね、秘密計画を打ち明け、甲府市に下車、旅館に休息して、山梨県日野春の無双原理講究所幹部と連絡し、甲府刑務所に収容されたる秘書、森山シマさんを救出せんため、弁護士、同志らと相談中、甲府署刑事及び巡査十数名の一団により逮捕され甲府署に留置される。翌朝、南アルプス山中、長坂署に移される。(同日、甲府市空襲で全滅。森山シマ奇跡的に助かる。)
8月15日、敗戦。9月マッカーサーの命により釈放される。
9月より、長期「民主主義講座」を始め、また、「特高を廃絶せよ」等、次々に5通の公開状をマッカーサー元帥に送る。何れも日ならずして実現される。
10月、「ナゼ日本は敗れたか」を出版、日本敗戦の真因を明らかにし、敗戦国日本の進路、方策を示唆する。
12月、身体の衰弱、やや軽快すると芝三田小山町、小林類蔵氏宅に、「真生活協同組合」を起こし、月間「コンパ」を発刊し、全国の同志に呼びかける。
1946昭21544月、神奈川県厚木に横浜勤労大学(YLC)を創設。
10月、横浜、大倉山精神文化研究所に移転。アルバイト学生を収容、毎夜および日曜日、定期的にPUゼミナールを開く。
1947昭2255世界連邦建設運動(UWF)に加盟。その平和思想、民主主義の普及に努力。
1948昭2356公職追放を受ける。皮肉にも、その著書「日本を亡ぼすものはたれだ」によってである。
日吉にM.I.(メゾン・イグノラムス)創設。
このころ、住居も、芝の小林邸から、横浜の妙蓮寺、日吉、東京代々木西原と移る。
1949昭2457A New School(ANS)宣言、第一回公開ゼミナール開く。8月、ニューヨーク・世界政府連盟副総裁ノーマン・カズンズ氏来日一週間滞在する。
1953昭286110月14日、「サードハナ」号で神戸港出航、インドに渡る。以降、アフリカ、欧米各国を講演と著述と出版のため、巡遊となる。
1954昭2962「日印クラブ」創設。
無双原理講究所(UPI)設立。
ブラバルタク文化大学院、オーロビンド大学に日本部をつくる。毛沢東にオープンレターを送り、彼の健康と新生中国の政策につき提言する。
1955昭3063インド抑留の沖縄漁民34名の救出運動。
6月28日、「ステーツ・オブ・ボンベイ」号にて、アフリカへ向かう。
10月29日、ランバレネ着、シュヴァイツエル病院の食生活改革の第一弾を放つ。
1956昭3164シュヴァイツエル博士と会見。恐ろしい熱帯性の、あらゆる病気の治療法を教え、その黒人酷使、食生活、世界観の改正を進言するも容れられず。
1月15日以降、熱帯性潰瘍(死亡率100%)にかかり、全身ただれ、リマ夫人の肩にすがって、赤道直下横断死の行進を続けたるも、医薬を用いず、食養と60日の断食により全快する。
2月29日、パリ着。25年ぶりの渡仏、30年前、西洋に初めて日本から持ち寄り播いた、文化のタネが芽を出しているのに驚く。
ベルギー、スイス、ドイツ、スェーデン、イタリア、イギリスで、昼も夜も講演を続ける。欧米各地に50余の研究団体、正食レストラン、純正食品製造加工工場(リマ工場、カメヨ)販売店、定期刊行物発行所が生まれ、欧米10ヶ国語に、20種余りの著書が訳され、数百万人の正食実行者を得た。
1957昭32658月、財団法人「無双原理講究所世界本部」をパリに設立。
1958昭336612月、「世界市民共和国」、初の日本人代議士となる。
1960昭3568第一期七年間の世界武者修行旅行は、最後の米国訪問四ヵ月で終わる。第二期八年が7月1日の再度の訪米から始まる。
7・8月、米国ニューヨーク州ロングアイランドに、第一回サマーキャンプを開催。
1961昭3669「新しき世界へ」4月号に「無双原理天文学入門」を掲載(以下同誌名省略)
1962昭37706月、スウェーデンに講演旅行、同国に正食運動高まる。
9月、西フランス海岸で、第7回国際PUキャンプ開く(二ヶ月)。
フランス最大の週刊誌”Noir et Blanc”で五回にわたり、「西欧人を救うコノ東洋人・桜沢如一」として大々的に宣伝される。
10月号、「生体による原子転換」(ケルブラン著)掲載。
11月、ニューヨーク名物「五時間放送討論会」に出る。
12月号、「生物による原子転換」掲載。
1963昭38712-3月号に「健康の第七の条件」を発表。従来の健康評価法・六大条件に「正義」を追加。
第一回カリフォルニア国際PU夏期大学キャンプ開始。
米国ケンブリッジに東洋哲学研究所開設。
7月、フランス、バロン海岸で、第8回国際東洋哲学人間大学の講義をする。
8月18日、ケネディ大統領暗殺予言のニュースが、ニューヨークの大新聞「ヘラルド・トリビューン」紙の第一面記事となる。(一年後に現実となる)。
1964昭39722月号、「癌は人間の仇敵か恩師か」掲載。
6月21日午後5時、Na(ナトリウム)→K(カリウム)の原子転換実験に成功。原子番号82番までの元素は、全てCとOから創造できることが証明され、ただちに世界各国支部に向け速報された。「私は老子の言う『錬金術』科を見事卒業した!こんごは、金、白金、ダイヤ等の量産化・工業化の段階に入る」と宣言。
TAO(オーサワ原子転換研究センターHEDES)発足。
10月18日、C(炭素)→Fe(鉄)、11月11日、Au(金)の原子転換に成功。
1965昭40733月14日、原子転換研究所センター第一回出資総会を開く。
5月13日、ベトナム戦争下のサイゴン市に到着。16日、ユエ市の三百人の正食実行者に迎えられ、講演会を開く。後、カルカッタ、ミュンヘンを廻ってパリに到る。
7月号、「精神文化オリンピック」(東洋精神文化国際夏期大学)提唱。
10月、新東洋大学(TES)開校。この年、102日間に3万キロ以上も飛び、欧米5ヶ所の講座を巡講(53年間で最大のキャンプに成功)。
1966昭41741-2月号に、「世界平和を建設するための生物学的・生理学的・ビオエコロジックな『世界正食平和宣言』」(草案)を発表。英・仏・日文で同時に全世界の支部、同志に発送された。
3月号、「世界恒久平和憲章-世界平和についての東洋の最初の発言-」を発表。
4月24日午後5時半、永遠の世界へ出発。
6月号「意志教育五十年の実験報告」掲載。
7、8月、世界各国より100人の参加を得て、第一回世界精神文化オリンピック開く。

※年齢は数え年表記(桜沢は生まれた時点の年齢を1歳と数える「数え年」を好んで使いました)

自筆履歴書はこちらへ
私の経歴書

明治二十六年(一八九三)十月十八日、京都に生る。

大正二年三月、京都府立第一商業学校卒業。同四月、神戸南米輸出入商滝波商店直輸部に入り、同時に神戸仏語第二学年入学。

大正三年三月、仏語学校卒業、同時に、第一次世界大戦のため滝波商店閉業につき失職。同四月、仏国領事シャルパンティエ氏の推薦により、ロンドン市ウォームス汽船会社のチャーター船万栄丸事務長となり、第一次大戦中の印度洋、地中海の遠洋航海に一カ年余従事。

大正四年、神戸貿易商仲桐商店支配人となる。

大正六年、横浜羽子二重商熊沢商店より資金を借り、貿易商熊沢商会を作り支配人となり、その後隔年欧米を廻る。

大正十三年、悪辣老獪の資本家の陰謀により事業を乗取られたのを機会に東京に移り、大正二年より関係せる東京社団法人食養会と、田中館愛橘博士、田丸卓朗博士主宰の社団法院日本ローマ字社の事業―スナワチ○生の事業、民主主義の基礎たる自由と平和の原理の生理学的生物学的確認と社会化による人間革命と、日本民主化の第一条件たる国語改革、国字革命運動に一身一生を投じ、爾来三十余年、今日に至る。

昭和四年、十数年来の生理学的、生物学的、人間革命の成果を世界に発表すべく欧州に無銭旅行を試み、パリに於て、自説の理論的(医学的・生物学的)展開と、技術的(治療法)展開を試み、勝利の見通しつきたるをもって、昭和十年十二月帰朝す。(今日、パリを中心とする東洋医学、漢方、鍼、灸術の流行は、パリの最大の医学出版業ピポクラテス社より十七年前発行せる「東洋医学」にその端を発す。又フランスにおいて、日本文化研究、今日の如く盛大になりしは、パリ最古、最大の文化的出版業ブロン社より出版せる『摩訶般若波羅蜜多心経』、『○異鈔』、『科学的・哲学的・東洋無双原理』その他各方面の新聞雑誌に発表せる論文を、その文献の中に収む。

昭和四年より同十年末までの滞欧中、殆ど毎年一回帰朝、一、二カ月を内地に送り、その都度、迫り来る東亜の陰悪なる風雲を一掃すべく、軍令部、参謀本部に出頭し、再三、再四世界を敵とする事の不可を力説し、荒木貞夫、飯村穣(後の総力戦研究所長、太平洋戦参謀総長、帝都防衛最高司令官)を説服し、東西両洋の相互理解のために協力せしむ。当時今一歩突込みしならば荒木氏を動かし空前絶後の不祥事件を或は阻止し得たらむ。

昭和六年、同志をより多く獲得するため、軍部においてあらゆる機会に講演を試みたるため、右翼暴力団に再三襲われたるが為講演をまとめ、『日本を亡ぼす者はタレだ』なる軍部糾弾の書、反戦思想の書とし、一時危険を避くるため、出版を同志に託して帰仏す。右出版物は、所謂愛国主義者、軍部のごうごうたる非難の的となり、爾来毎年帰朝の都度、自由に講演を試みる能わず秘かに早々帰仏す。

昭和十一年 身辺に迫る危険を緩和するため、久○宮朝融王、久○宮大妃、伏見宮一家、松平家、徳川家等の健康指導者となり、或は同僚カレル博士の名著『人間この未知なるモノ』(岩波)、アランヂイ博士の問題作、『西洋医学の没落』等を訳出し、或は『食物だけで病気の癒る(新)食養療法』(実業之日本社)(同書は数百版を重ねたり)を出版、暫く医学的、哲学的著作家として姿をくらます。(右『人間』は、昨年中、水島博士が天皇に御進講せり。)

昭和十五年九月、大津市に無双原理講究所を開設。

昭和十六年三月、再び国際問題の言論に復帰し、『健康戦線の第一線に立ちて』を出版(十万部)、その扉に、『近衛公以下全ての日本指導者に告ぐ』の一文を掲げ、『卿等が今日見るが如き政策を根本的に改革せずば、卿等は十年を出ずして日本を亡ぼし、現在のフランスの如き困窮と混乱のドン底に沈没せしめるであろう』、『しかして、フランスの指導者らが銃殺されたることを銘記せよ』と断言。舌端死再び過激に走り、圧迫の暴力、漸く身辺に及ぶ。四年後この断言実現す。

同五月、『最後にそして永遠に勝つ者』を出版し、英国の印度放棄、その方法と条件、ガンヂイの暗殺を予言す。(五年後実現)

同六月、『日本を亡ぼす者はタレだ』反戦思想として発禁。紙型及在庫二千冊余没収。警視庁、検事局、愛宕署、西神田署等にて再三留置さる。

昭和十八年七月より、六ヵ月にわたり、大津憲兵隊にて残虐なる取調べを受く。

同七月、大川周明より佐野学なる人物が十三年振りに出獄せるも瀕死の状態にある事を知り、スルガ台佐野病院に彼を訪ね、その十三年間の獄中生活に同情し、彼を引取り、妙高温泉中の別荘に招き、真の民主主義の最高の理想たる自由と幸福の生理学的、生物学(的)キソを理解せしめんがため、十月まで、食物療法を施し遂に生命をとりとめ、生活費を与えて九州に送る。

軍部に圧迫、右翼暴力団の迫害日の日に増大す。

十九年七月一日、日本敗戦近きを断言し、第一線にある青年学徒四十名に「オシモノヲツツシミ、サイゴニカツモノタレ」との同文電報を発信す。(上官の命に反抗すとも、必ず生きて帰れ、の意。)この電文により最後の菊水部隊長、八木順成は、夜間沖縄突込み自爆を忌避し、無事部下と共に帰還せり。

同七月二十日、大学生部隊を動員し、フランス反戦思想の大御所アナトール・フランス及びロマン・ロラン(殊にそのクレランボーのダイジェスト)を主としたる反戦思想の書『永遠の子供』と、軍国主義を生理学的、生物学的に、徹底的に粉砕する思想をもりたる『心臓を入れ替える法』の二冊を秘密出版し、東京市内数十カ所の郵便局より全国学徒、青年に発送す。

同十一月末、ツイニ意を決し、ソ連をして日米の仲裁をせしむべく出発。関釜連絡を密航者として横断し、ハルピンに着く。浜江省次長田村敏雄を宿に呼び密議し、同氏に旅行免状を作製させしめ、単身馬にて十二月のソ満国境を突破せんとす。時に内務省より反戦論者桜沢如一逮捕令の入電を持ちて、浜江省警視長官、田村敏雄に迫る。一方、同市の特務機関長土井将軍の命により即刻銃殺すべく、憲兵隊桜沢如一を追及す。田村敏雄とニュー・ハルピン・ホテル所有者近藤繁司両氏の厚意により危機を脱出し、一旦帰国、妙高温泉にかくれ、新計画を作成し、一月二十五日出発せんとす。同日早晩、中山村警官隊の包囲をうけ、午前十時ツイに逮捕され、新井署に送られ地下の暗室に放込まれ、三カ月間零下十余度の暗室にて緩慢なる法人法を試みられ、極度の衰弱に陥入り危篤に瀕す。三月末、同署員の肩にかつがれ突如新潟署に移され、残酷なる連続無傷拷問をうけ、空襲の都度一般留置者は釈放を許されるに拘らず、只一人手錠をはめ地下室に放置さる。一月二十五日以降、取調べをうけず突如六月末、人権じゅうりんの訴訟を起きざる事と、外出せざる事を条件として釈放さる。

同七月初め、帰宅後、飯村穣が帝都防衛最高司令官に任命せられしを知るや、クーデターの計画を作製し、急ぎ上京途中、諏訪市長藤森清一郎(鈴木貫太郎顧問)を訪ね、秘密計画を打ちあけ、甲府市に下車、万屋旅館に休息し、北巨摩日野春村の無双原理講究所幹部と連絡し、甲府刑務所に収容されたる秘書森山シマを救出せん為、弁護士、同志らと相談中、甲府署刑事及び巡査十数名の一団により逮捕され、甲府署に留置され、翌朝南アルプス山中長坂署に移さる。(同日、甲府全滅)。

二十年九月、マックアーサーの命により釈放さる。

同九月、『特高を廃絶せよ』の一文を、マックアーサー元帥に送る。数日ならずして特高壊滅さる。第二(神道廃絶令)以下第五まで送る。

二十年十月『ナゼ日本は敗れたか』を出版。

同十二月 身体の衰弱やや軽快するや東京都芝区三田小山町五小林類蔵方に真生活協同組合を起し、全国同志によびかく。

二十年一月より東京前記、真生活協同組にて、民主主義長期連続講座を開く。

同八月、『民主主義講座』を山梨県日野春にて開催す。

二十一年四月、大倉山精神文化科学研究所を借り受け、横浜勤労大学を創立し、アルバイト学生を収容す。

二十三年九月、『世界政府(新聞)』発行。

二十二年、米国の世界連邦建設運動UWFに加盟、その平和思想、民主主義普及を始む。

二十三年一月、京都、大阪、名古屋に於ても世界政府大講演を開き、各都市においてラジオ放送をなす。

同四月、月刊『世界政府』を創刊今日に至る。

二十四年八月、ニューヨーク、世界政府連盟副総裁ノーマン・カズンズ氏来朝一週間滞在、種々将来の計画を練る。

同十一月、日本苦学生代表として、学生久司道夫(二十六才)を独力渡米せしむ。目下米国世界政府運動総裁(アラン・クランストン博士)室にて平和建設のため奮闘中。

二十五年五月、米国女流著作家ミス・フロランス・ラフォンテーヌ・ランダル、シンシナチ放送局より、小生の思想と事業の紹介を放送し、その後引きつづき、講演と放送と著作により全米に小生の思想を宣伝中。

二十五年九月、第二学生代表篠原孝宥(二十三才)を独力渡米せしむ。

(自筆原稿より)

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