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この語録集は桜沢如一の弟子の一人であり、現在ノースカロライナ州(アメリカ)で鍼灸院を営みながらマクロビオティック生活を送っておられるミッシェル松田氏(本名:松田光弘)が編纂したものです。月刊マクロビオティック誌では1991年5月号、6月号に掲載されました。ここでは当時の月刊誌に掲載されなかった語録も含め、松田氏の許可を頂き掲載します。
※元原稿のリタイプにご協力いただいた以下の方に感謝いたします(敬称略)
本舘 頌子
社会
●まことに東と西の正式な対面は二十世紀に始まった。この意味において二十世紀は人類の歴史に重大なものである。
(『兵法七書の新研究』P105)2012.12.09更新
●この東西思想の根本的差異を徹底的に説明する形而上学的努力によって、新しい世界文明を生み出すことが最も平和な、願わしい、しかも有効な、そして可能な方法であると信ずる。武器をとっての戦いは百戦百勝するとも善く戦うものではない。勝ち易きに勝ち、戦わずして勝つのでなくては真に勝ったのではない。相手を心の底から畏服させ、敬慕させるのでなくては真に勝ったのではない。だから、この東西相剋の今日、何よりも肝要なことは、西洋人に「見えぬ世界」を見る「眼」を開いてやることである。つまり思想的に、精神的に東洋の優越を理解せしめることである。「見えぬ世界」をもっているということは、われわれ東洋人の強みであり、「見えぬ世界」を否定するのが西洋人の強みなのである。
(『日本を亡ぼすものはたれだ』P134~135)2012.12.09更新
●西洋は『御』と『様』のない国、日本は大ていの言葉に『御』もしくわそして『御』及び『様』またはその同意法を添えることが出来る国である。
(『日本を亡ぼすものはだれだ』P47)2013.3.30更新
●東洋思想は現象の彼方、現象をして現象たらしめるもの、現象の根源の世界を出発点とし、到着点として始終するのに、西洋思想は反対に、現象界に沈没し、現象を本位とし、現象と現象の間の相対的関係を確定的に認識せんとしているものである。
(『日本を亡ぼすものはだれだ』P57~58)2013.3.30更新
●東洋では大宇宙を達観し、その根本原理をつかむために主観を没却することを努力し、逆に人生の意義を悟り、精神を物質の上に確立することに成功した。これを東洋の優越とすると、西洋はその反対だ。西洋は自己を中心とし、宇宙を征服するために物質の研究に没頭し、物質の支配を精神の上に確定した物質を否定した東洋人はエーテル、エネルギー、空間、時間の如き荒唐なる空想的存在を認めないのに。物質を肯定する西洋人は却ってこれらの不可思議な空想的存在を仮定し、その上に人生を築き上げている。
(『日本を亡ぼすものはだれだ』P82)2013.3.30更新
●東洋でなぜ精神を尊重したかといえば、昔から物質に恵まれていたから物質のありがたさを知らなかったからであり、西洋でなぜ物質を尊重したかといえば、長い間物質に恵まれなかったからだろう。
(『自然科学の最後』P223)2013.3.30更新
●文明とは自然法爾、身土不二の原理の体得、自然追従、天命地令人従の自然生活法の最高峰を意味し、物明とは、天命地令を無視し、人命人令天地従、自然征服、科学機械万能時代を実現するものをいう。正しい意味において西洋に文明はなく、東洋に物明がない。二十世紀以後の人類の文明は、この東西両明を綜合したものでなくてはならない。
(『無双原理「易」』P173)2013.3.30更新
●文明とは自然淘汰の機構を破壊する企てである。その急先鋒が医学である。
(『世界無銭武者旅行』P337)2013.3.30更新
●文明は菜食主義からおこって、肉食で亡びる。
(『コンパ文庫(五)』P4)2013.3.30更新
●戦争というものは、ケンカとちがって人間対人間の関係ではなく、ある特定な人間のドン欲や思いちがい、つまり不完全な世界観から生まれ、多数のドレイが死にたくもないのに、その思想に引きずりまわされ、戦争というものは、ドレイを解放するために、ドレイに自分が自由人になることを願わせ、そのユメに共鳴して、その道具になり、その手先になるから本格的になるのだ。つまり不完全な世界観から生まれ、多数のドレイが死にたくもないのに、その思想に引きずりまわされ、自由人になりうる資格や権利や義務のあることを考えさせるための高価な代価である。
(『コンパ文庫(五)』P85)2013.3.30更新
●全ての戦争は根本精神の相違、その各世界観の根本的矛盾より来るのであるからには、必ずしも武力によって解決しなくてはならないものではなく、むしろ思想的解決を必ず最後には必要とするのであること、できれば始めから思想的解決を試みるべきこと(即ち戦わずして勝つこと)を主張する。
(『人間の栄養学及び医学』P12)2013.3.30更新
●戦争とは、不確定性の人々が、山積した不確定性の行績を暴力によって一掃しようとする時の現象だ。
(『病気を治す術』P120、『コンパ文庫(五)』P120)2013.3.30更新
●戦争は、一人の人間を殺すために七五〇〇〇フラン近くの金を消費する。
(『永遠の子供』P45)2013.3.30更新
●あらゆる戦争は、結局のところ「モノ」ほしさか、「モノ」のムサボリか、自分という「モノ」力をふるいたいからか、」「正義」や「幸福」や「自由」の「モノ」的表現を完全なモノと思ったりしたから生まれた。
(『平和と自由の原理』P29)2013.3.30更新
●戦争の四要素
A、宇宙観の欠けているリーダー、またはリーダーの一群
B、そのリーダーシップに盲従する宇宙観のないドレイたち
C、排他性、これも宇宙観健忘症の症○の一つ。経済的欲望はそのまた一部。
D、武器、これは恐怖をもつ者の発明で、恐怖もまた宇宙の構造や秩序を知らないモノの取り越し苦労のおできみたいなもの
(『月刊「新しき世界へ」』P545、『セカイセイフ』11号)2013.3.30更新
●平和の原理
『ただ一つなるもの』(無限、絶対)をもたないものが、平和や一つの調和(美)や小説や詩を作り出すのは、サルが何万かのコトバを書いた紙きれを並べて、一つの詩や小説をつくるより難しい。―平和論者や世界政府運動主義が現在探しているのは,二つや三つの単語のクミ合わせ方である。しかし平和の原理はそんな技術の中にはない。文字の研究ではなく、文字と文字の組み合わせ方ではなく、文字によって現わす一つの思想をさぐり出さなくてはならない。しかしかれらは『ただ一つなるもの』をさがすべきだ。かれらはそれを探していると称しているし、また思ってもいる。けれどもかれらはあくまで経済的、社会的、政治的な法律的な技術を探している。そこに無理がある。不可能だ。技術でなく思想だ。(『コンパ文庫(五)』P87~88)2013.3.30更新
宗教
●宗教とは、この宇宙、現象の世界の、根本原因を教えるものである。それは純粋の直観のくもりなき世界観を教えるものである。それは 自ら完全に存在して不生不滅なるもの、あらゆる生成の根本原理そのものだからである。それは純粋の直感の曇りなき世界観を教えるものである。それは自ら完全に存在して不生不滅なるもの、あらゆる生成の根本原理それ自体である。これは現象、仮象の世界に、不変不動の根本原理を認める心眼を開かせるものである。だから、それは『神』を人格化したり、『神』に要請をかけたり、『道徳』の如き色々の規約を作ったり、法律の如き審判を試みたり、夢想郷的天国なる思想を要するものであってはならなぬ。
(『日本を亡ぼすものはたれだ』P127)2012.12.09更新
●昔、宗教は人々に『生活の指導原理』を教え、平和な幸せな、楽しい生活を教えたものである。それが中世紀ころからの科学の発達に圧迫され、その王位を襲われ、ことに産業革命以来は、どこかに圧し流されてしまい、今では全く科学に屈服し、科学に帰依し、科学の臣下とまでなり下り、科学によって辛うじて余命を保っている。教会や寺院に落雷を恐れての避雷針が光っているのは、その第一の証拠である。寺院や教会の建造物に保険がついているのは、その第二の証拠である。宗教家が医院や医者を利用して信徒を集めねばならないのは、その第三の証拠である。宗教家が医師に手をとられたり、薬をもらったり、痔や鼻の手術をしてもらっているとしたら、もうお話にならない。それこそ宗教とは概念の世界だけの不換紙幣か空手形である。―宗教家が科学を指導するのでなければ、この現代、全世界を不幸と犯罪の修羅場にする狩猟経済学の害毒から人類を救い出すことは出来ないであろう。
(『PU経済原論・夢と詩と情熱の世界』P99~100)2012.12.09更新
●『なんじら世にありては患難(なやみ)あり』(ヨハネ伝第16章33)というキリストのことばの意味が分るようになったのがうれしい。これがほんとうに分る人はそうたくさんない。
(『新しい栄養学』P416)2013.3.30更新
●『われ汝に.天国のカギを与えん。(これを持てば)およそ汝がこの地上(相対界)にて結ぶところは天(無限、絶対、永遠の世界)にても結ばれ、この地上にて汝の解き放すところ(のもの)は天にてもとかれるなり』(マタイ伝16章19)この「結び」と「とき放ち」はすべての「創造」とすべての「解放」を意味する。そして地と天という言葉は、相対、有限、無常界と絶対、無限、永遠界の同一性をはっきり断定したものである。
(『東洋医学の哲学』P197)2013.3.30更新
●キリストの治療は完全であるが絶対ではない。それは意志を条件としている。「求めよ」というのは意志の必要を説くのである。その 結果として『さらば与えられる』というのである。―私の経験では多くの人は『求めよ、さらば与えられん』というコトバに無条件降伏 するが、それらの人々より、たしかに少くない人々が『与えよ!さらば求めん』という。こんな人々にかかったらキリストの治療は全くその効力を失う。 (『永遠の子供』P104)2013.3.30更新
●キリスト教の大きな、とりかえしのつかないマチガイの一つは、あたたかいフトンにつつまれていることをマコトと言わずに『マボロシ』というコトバで教えたコトである。
(『平和と自由の原理』P243)2013.3.30更新
●神とは正義の本体としての宇宙(絶対、無限、永遠)のことである。
(月刊「新しき世界へ」547号、『セカイセイフ』34号)2013.3.30更新
●神とは科学が大きな犠牲を払って探している真理の本体の古名である。
(『人間革命の書』P57)2013.3.30更新
●神の摂理
宇宙の大法、陰陽の原理を犯す者が、薬や注射や湯治でドンドン治ったら、貧乏人は未来永劫浮かぶ瀬がない。自然淘汰のメカニズムを人工的に妨害することは、結局個人を救うために廃人を作り、全民族を亡ぼすことになるのである。いわゆる治療医は、人類を滅亡せしむる重大犯人である。
(『自然医学』P193)2013.3.30更新
●私共が不治の病気を治すのは人を助けるためではない。数十億年かかって作り上げた人間という名の神の実力をこころみるためなのである。
(『世界無銭武者旅行』P198)2013.3.30更新
●過去の必然性が現在の可能性、未来の必然性になる。運命とは過去の必然性のことで業というのは、この必然性のことである。
(『バイキンの国探険』P118)2013.3.30更新
●信仰の本質は、絶対知の世界観の確立、宇宙根本原理の認識徹底、即ち絶対の安心立命で、それはもう自我の解放であり、絶対的幸 福の発見である。平たく言えば信仰は無畏即ち最上の完全なる幸福で、宗教はそれに至る直観を教えるものである。―信仰は力で ある。私は真の信仰を私一流の東洋風な論理で次の如く解する。『君の信仰が君の安心立命を完全に保証するなれば、それは正しい信仰である』
(『日本を亡ぼすものはたれだ』P127~128)2013.3.30更新
●信とは
真の知ですみきった透明な無限の光の海でそのオモテは愛と楽しみのさざ波でかがやいている。
(『コンパ文庫6』P48)2013.3.30更新
●『キリストは全ての病気を治した。全てを信仰だけで治した』とマタイ伝に出ている。このキリストの信仰は、現代人や、ことに西洋人の信仰とは全く違ったもので、新しいコトバで言えば世界観、私のいう『宇宙の秩序」『(観)で、古い大乗仏教の言葉を借りると、『義は明澄にして、相は愛楽なり』である。この『義明澄相愛楽』という信仰の定義を次の如く訳出している。『信仰とは、内的にいえば一つの千里眼で、無限の時間と空間を通して一切を透視直観するものであり、外的には無限にあふれる、愛と永遠の悦楽である』やさしく言えば、これが『宇宙の秩序』『マホーのメガネ』である。
(『世界無銭武者旅行』P339~340)2013.3.30更新2013.3.30更新
●信とは明澄な理解である。信の相は一切を抱き入れる愛と楽しみである。信だにあらば、君は山に向い『海に入れ』と命令できる。 信こそ正夢を見る人の心境である。
(五七一号、『新しき世界へ』310号)2013.3.30更新
●精神とは無限の時間と空間の海に存在する無限小のサザ波(震動、電波-その大集団を物質といい、さらに大きな物質の相関現象を歴史という)の全体の自証、自覚なのである。偉大なる精神とは、人間にキャッチされる宇宙精神の大きさをいう。人聞の精神とは、本来、各肉体受信器のキャッチする宇宙の電波なのである。しかし、この性能と宇宙電波とは、ほとんど同一と見られやすい。それは重量と質量の如き関係にある。
(『人間革命の書』P9)2013.3.30更新
●私共が目で見たことさえない実在、全一、絶対、永遠の世界の存在を信じたり、空想したりするのは、私共の精神が実は永遠、絶対、実在の世界そのものであることの自証である。
(『自然科学の最後』P258)2013.3.30更新
●われわれの精神は全体なのである。肉体はその部分にすきないのである。われわれの肉体は、ちょうどラジオの受信機のようなものである。それは全宇宙の充満している電波の一部分を受けて物語るのである。
(『食養人生読本』P177)2013.3.30更新
●大宇宙、大自然とともにあって、不生、不滅、不増、不減、不変で、無常の肉体は一億でも、二十億でも、はたまた千億、五千億でも、永 遠の精神は一つなのである。つまり大宇宙、大自然の絶対、無限恒常、超時空性の別名を精神というのである。
(『新しい栄養学』P76)2013.3.30更新
哲学
●正しき世界観をもっている人(神と人、心と身、土と人間、食物と人間、健康と食物、生と死の一如観をもっている―神を知る人)は、決して不幸にはなりません。病気もしません。そして永遠の世界に生きています。
(『「未開人」の精神と日本精神』P114)2012.12.09更新
●正しい世界観を生活の指導原理とすると、生活はどんな形式になるかと言えば、それは大変な改革であります。それはまず資本主義的経済機構、交換経済の原理というものを根本的に否定します。自由主義、個人主義、営利本位の商、工、農業を否定します。味覚本位の享楽主義的食生活を否定します。宗教と生活を一枚にします。食事は生命創造の儀礼、祭り(斎)となります。
(『「未開人」の精神と日本精神』P213~214)2012.12.09更新
●もし人間が猿や細菌のようなものから発展し、進化してきた系であるとすれば、突然変異のような説明出来ない問題もいくつもあるが、一番大きな問題は、判断力や記憶力の問題である。百歩ゆずって、判断力が仮に経験によってつくられるものであるとしても、その最初の判断を可能にするものは何であるか、その判断の生み出した概念を保存するものは何か、判断力を実行力(意志と一般に言われているもの)に進めるメカニズムは何か、一体全体それなくしては判断が生まれない記憶力とは何か?等々の問題である。これが進化論でとけない限り、進化論は一つの虚構であり、単純な幼稚な心理と理論の産物であると断言してもいいだろう。第一、進化論を信じるなら、神や聖人や達人や仁者は後世になるほど多くなるはずだが、世界の現状は、その反対の形相を呈しているとさえいう人があるほどだから、ここに進化論の矛盾があることを否定できないだろう。
(『東洋医学の哲学』P116)2013.3.30更新
●進化論は、一つの教室の生徒をその成績または身長の順に並べて、これらの子供はその低い方から高い方へ進化してゆく者である、と断定するようなものである。
(『東洋医学の哲学』P247)2013.3.30更新
●進化論が他のいろいろな思想と共に、「動物的」であるのはやむを得ない。進化論ではいつでも動物的に「生存競争」に主な根拠をおいているから、根本においてそもそも間違っている。それは皆、食物如何による。また、農業時代が狩猟時代の後に来たなどという考えも間違っている。
(『食養講義録』P9)2013.3.30更新
●生物存在、生命現存の理由は、その生物、生命現象を許す環境の法則それ自らであるというのである。進化論の適者生存は、この意味から一歩をすすめ、深めて適食者生存と改訂される。
(『自然医学としての神道』P108)2013.3.30更新
●客観は直観、主観なしには存在し得る理由がない。これ科学的研究に諸説対立を見る所以である。
(『人間の医学及び栄養学』P86)2013.3.30更新
●科学的に、あるいは綜合科学的に世界を認識せんとすることは客観的であるといわれている。が、純粋に客観的な認識というものは存在し得ない。必ず多少とも主観が交る。これ科学的研究に諸説対立を見るゆえんである。
(『自然医学』P118)2013.3.30更新
●主観という言葉は、SUBJECTという外国語の訳だろうが、これらの言葉は同時に「従属する」「偏狭なる」「服従する」「臣下」などという意味をもっている。だから主観や主語、主格などというのは決して主人公とか支配者というようなものでは ない。「環境や条件に支配さるるもの」の意である。客観という言葉は、OBJECTの訳語だろうが、対象、物件、目的という意味を持っているので、客観を尊重するのは、すなわち偏狭な主観を排除して、対象それ自体を問題にする態度を主張するものである。しかし、対象も物件も、つづまるところ主観の評価、観察の変態であり、実用、実生法においては、すべての客観は主観におきかえられるのである。こんな客観が重く見られるのはあまりに偏狭な主観の強い人に、我、自分、個人本位の人にばかり多すぎて、闘争のたえない人にが反動的に要求したからだろう。
(『未開人の精神と日本精神』P205)2013.3.30更新
●唯物主義は、自由主義、個人思想、享楽主義、社会主義、共産主義、弱肉強食の無政府主義、自己中心主義、資本主義、交換経済、自然科学 などを生んだ母胎である。自然科学がその最鋭兵器である。古い栄養学は、この自然科学をもって偽装されている。
(『新しい栄養学』P43)2013.3.30更新
●唯物論は科学的ではあるが、デモクラシーが科学でないように、科学ではない。デモクラシーも、唯物論的共産主義も両方とも信仰(belief) )である。唯物論者にしろ、民主主義者にしろ、幸福、人道、健康、自由、平和などが人間の唯一の理想の世界の違った角度から見た光景であると、チクオンキのようにいっているが、それらのコトバが何を意味するのやら(定義)、それらをつらぬくただ一つの宇宙の秩序をハッキリ表現できえないなら、カレは幸福な人でも、自由な人でもない。
(『コンパ文庫(六)』P197)2013.3.30更新
●私は個体、生態など、こと有限界、現象界に関する限りは唯物論が正しいと思う。
(『永遠の子供』P141)2013.3.30更新
●唯物弁証法は元来、その基礎たるヘーゲルの弁証法なるものが、彼ヘーゲル畢生の努力にもかかわらず、はなはだ概念的であり、マルクスによって唯物的に補装されたものの、まだその生来の弱さから脱けきっていないということである。たとえば正が反になるメカニズムが不明である。また一体、正または反はどこから出てきたのかが不明である。―この弁証法の一つの小さな、しかし重要な欠点は、正→反→合の転開と司る原動力、指導力が何であるか、ということを見落としていることである。―それを完成したものがP・Uである。P・U即ち日本精神、むすびの世界観の簡素な体系は『絶対弁証法』『最高の弁証法』といってもいいわけである。
(『夢と情熱の世界』P167、『PU経済原論二夢と詩と情熱の世界』P167~168)2013.3.30更新
●唯物史観、これはかッチりしたものである。絶対に間違いない。これを発見したマルクスの偉大さにはホトホト感心する。ただ惜しいのは経済生活が歴史のモチーフであるとしただけで、もう一歩つっこんで食物(環境全体)を指摘しなかったことである。
(『夢と情熱の世界』P173、『PU経済原論二夢と詩と情熱の世界』P172)2013.3.30更新
●余剰価値は確かな事実である。しかし、その大きな利益は誰がとってもいい。資本家でも労働者でもいい。どちらでもPU即ち「むすび」の世界観をもっていればいい。またもっていなければどちらがそれを獲得しても悪いことになる。誰がそれを獲得しても、その人がPUむすび世界観さえ分っている人なら、その人の幸福はもちろんその周囲や社会全体の幸福を増大するにきまっている。
(『夢と情熱の世界』P174、『PU経済原論二夢と詩と情熱の世界』P174~175)2013.3.30更新
●国家とは宇宙の秩序に法って『生活』してゆく伝統的な人間の集まりである。
(『夢と情熱の世界』P189、『PU経済原論二夢と詩と情熱の世界』P189)2013.3.30更新
●民族とか国家とかいうものは、生命という見えない光線を、環境というプリズムが分析して作り出した色々な色だであり、幻影である。平和と、光明と、自由はそれらの全ての色を含む、生命という見えない光線の世界にある。この生命の世界に分け入るには、環境の多様性に眩惑されずに、その環境の食物としての一如性を発見することである。
(『永遠の子供』P40)2013.3.30更新
●科学は学ばなくとも、道さへ学べば人間は幸福に生きることが出来るが、道を知らずして科学のみを学ぶときには、とんでもない不幸を招くことになる。
(『人間の栄養学及び医学』P2)2013.3.30更新
●ミチというのは天と地の間にミチミチているもの、首―頭脳―精神の足(走る)姿というような心もちをもっている。―道は『行』よりはほかに学び習い覚える方法がない。
(『宇宙の秩序』P62)2013.3.30更新
●道やブラーマンやニルヴァナは、冒険的に論理的な、科学的な仮説で推定されたり、発見されたりしたモノでなく、ヂカニ体験したモノで、その中で感覚がとらえる明らかな、限られた、決定的なデータによる、ソノ「絶対的確実性」なのである。
(『平和と自由の原理』P52~53)2013.3.30更新
●道とは国民に人生のあらゆる恐れ、あらゆる困難を乗りこえる術を教え、百パーセントの自由を保証する実際的哲学の方法なのである.。
(月刊「新しき世界へ」541号、『柔道の本』)2013.3.30更新
科学
●科学は殺人には偉大なる力を発揮するが、活人には全く不向きである。
(『人間の栄養学及び医学』P30)2012.12.09更新
●科学は数百年の時間をかけて、モロモロの恒数を探究したか、すべて手に入ったものは、近似値や暫定値や、相対、有限、無常の数ばかりであった。
(『MI通信』24号)2012.12.09更新
●部分を分析と抽象で研究してゆくことは永遠に際限なく、したがってその結果を綜合するということも永遠に不可能である。故にそれは全体を把握する研究とは全く正反対の方向である。
(『自然医学としての神道』P41)2013.3.30更新
●分析、専門化、顕微鏡、抽象を以って、天地自然、人生、世界の現象を見きわめ解き明かそうとする科学こそは、全一観、宇宙観、陰陽観をもって没我、物心一如、身土不二の世界観を樹立する唯一最大の妨害である。
(『自然医学としての神道』P160)2013.3.30更新
●科学は無限の発展をたどるものである..しかるに無限の発展を必要とするようなものは、実は発展も進歩もしないものである..
(『自然医学』P72、『自然医学としての神道』P72)2013.3.30更新
●科学的発明は全て「あくことなき欲望」という放埒な母から生まれて、わがまま一杯に育てられてきた子供なのである。
(『自然医学』P90)、『自然医学としての神道』P90)2013.3.30更新
●科学は主観を排撃し、客観を尊重し、感覚を信頼せず、計測器を信頼し、計測されないものは絶対に信頼しないのが特徴である。だから、神、精神、生命力、幸福、真善美、霊魂、宗教、道徳、信仰、意志などの大きな世界、実生活の大部分、最も重要な部分については何の発言権もない。現在の世界不安と世界苦はこの科学が世界の支配権を握った時に生まれた。
(『「未開人」の精神と日本精神』P278)2013.3.30更新
●西洋人はよく時間と空間を別なものと思い、実在的なものだと思う。それが単に便宜上人間が仮定したものであることを忘れている。これこそ科学が大きな罪と間違いと人間の不幸を招くに至った第一歩なのである。それあるが故に、自然人の画には幾何学的な遠近法がなく、それがために自然人の言語には時制がない。
(『日本を亡ぼすものはたれだ』P114)2013.3.30更新
●ガリレイを初めとして、科学者たちはすべての観測の基礎として、決して証明することのできないものを法則として選び、それを基礎とし、根拠とし、そこから出発している。これは、科学が客観性、無色透明性、即物性を主張しながら、実は観念論的思想を基礎としているという重大な、根本的な欠陥を示すものである。運動の現象を研究するなら、まず第一に、すべての運動の基礎とも、根拠とも、起源ともいうべきエネルギーとか重力とかいうものの正体をつきとめ、またいわゆる運動の相対性、即ち有限性を把握しておかなければならない。
(『自然科学の最後』P99)2013.3.30更新
●『AはAである』とか、『Aは非Aでない』とか、『AはBでない』とかいう論理は、いつでも与えられた条件の下では通用するが、それを一歩でもはなれたらもう嘘である。科学の法則は全てこれである。
(『自然科学の最後』P113)2013.3.30更新
●科学が宇宙の森羅万象について与えてくれる説明が「まず妥当」なのは物質、非生物についてのときだけであることは、西洋の科学者も正 直に認めている。―精神や生命や生物に関する事では、科学は、もう未解決と無知と未知で充たされている。
(『自然科学の最後』P193)2013.3.30更新
教育
●正しい教育とは、読み書きソロバンではない。正しい判断力をもたせることである。
(『コンパ文庫』38)2012.12.09更新
●教育の大眼目は、この世に生まれてきた者に、この世を乗り切る条件を知らしめることであると思います。そして、その条件の中でも第一に大切なことは、まず、この世の組み立て(構造、成り立ち、道すじ)をよく知ることでしょう。それは天地、陰陽の理、大自然(人生をふくむ)の秩序(組み立て)、誠の道であります。つまり、無双原理世界観であります。
(『人間の秩序』P59)2012.12.09更新
医学
●現代の治療医学は死期を少しく延期することが出来るように思っている人もあるが、大きな間違いだ。百年生きるものを五十年で斃れさせておいて、一時間か一日最期を延期したところが何になろう!?
(『自然医学としての神道』P190)2012.12.09更新
●現代西洋医学は要するところ、極端な個人主義、極端な、迷信的な、唯物主義、精神的近視の産物であるから、その西洋医学や、それを信ずる医学者、医師には生命の神秘や、宇宙に充ちみなぎる不可思議なるそのメカニズムが分るはずもなく、見えるはずもない。
(『自然医学』P30)2012.12.09更新