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【第3回】資料で振り返る桜沢如一の思想と生涯

※月刊「マクロビオティック」2021年3月号より転載
※第27回以降は「マクロビオティック ジャーナル」にて連載中

第3回:幼少期・少年期②

ナビゲーター:高桑智雄(桜沢如一資料室室長) 協力:斎藤武次、安藤耀顔

桜沢少年の夢

桜沢如一が青春を過ごした時代は、明治となって以降、西洋思想や文学が輸入、啓蒙され、坪内逍遥や二葉亭四迷に始まる日本近代文学の一大興隆期でした。特に桜沢が生まれた明治中期は、近代的自我意識の目覚めから、開放的な自由を求めるロマン主義や末期にはゾラやモーパッサンといった小説家の影響を受けた自然主義文学が流行し、当時の若者を熱狂させていました。

桜沢少年もそんな時代の影響から「大きくなったら小説家になりたいというのが人生における私の最初のユメでした」と語っており、与謝野晶子に心酔し、短歌雑誌に投稿したり、モーパッサンやフローベール、ルソーやトルストイといった自然主義文学にかぶれていたりしていたそうです。

そんな青春時代の桜沢の貴重な写真が1枚だけ資料室に残されています。1908年( 明治41年)の16歳から1913年(大正2年)の21歳までの5年間通った「京都府立第一商業学校」での集合写真です。当時の学校制度は現在とは違い、
義務教育は尋常小学校4年だけでほとんどの人は就労するのですが、桜沢はおそらくその後、高等小学校4年を経て商業学校に入学したものと思われます。

桜沢如一の学生時代

京都府立第一商業学校での集合写真。上段右から2番目が桜沢だと言われている。

 

桜沢には小説家になりたいという夢があったので、当時文学を本格的に学ぶためには義務教育を修了した後、高等中学校を経て大学へ進学する必要がありました。桜沢も当時大学になったばかりの早稲田の文科へ進むことを夢見ていたのですが、実際進んだのは職業訓練校の意味合いが強い実業学校だったのです。つまり芸術の道を諦め、商業・ビジネスの道へと進むわけですから、これは桜沢にとっては大きな岐路であり挫折であったといえます。

桜沢の人生におけるトリックスター

どんな人の人生にも不条理な苦難を与えたり、自分の進みたい道を邪魔したりする人が登場します。しかし、後々人生を振り返ると、その苦難や邪魔が反動となって、大きく羽ばたくエネルギーになっていることに気づくことがあります。そういった存在を神話学ではトリックスターといいますが、桜沢の人生にとってのトリックスターは、まさに父・孫太郎だったのかもしれません。

母・世津子の死後、残された桜沢少年と弟の元に孫太郎は継母・マサを連れて戻ってきます。マサは新しい女性の象徴のような世津子と正反対の京都という古都の習慣に育った厳しい古風な女性でした。

そんなマサと最愛の母を亡くしたばかりの多感な桜沢少年と馬が合わず手を焼いた孫太郎は、桜沢をなんと坊主の修行をさせるため寺に預けてしまいます。幸い桜沢を可愛がってくれる葉茶屋に引き取られ勉学に勤しみ、早稲田の文科を夢見ますが、ここでも仕事を頻繁に替え生活が安定しない孫太郎は、手っ取り早くお金の稼げる商業の道へ進ませるため、桜沢を商業学校へ進ませるのです。

少年桜沢はどんなにか失望したでしょう。しかし、孫太郎の強引な人生への介入がなく、桜沢の希望通り芸術の道へ進んでいたら、今、私たちはマクロビオティックに出会うこともなく、世界にマクロビオティックが広がることもなかったかもしれません。

桜沢はその学校で将来世界へ羽ばたく貿易商になるための土台、そして当時赴任していたアメリカの青年、ハリスン・カリンズ先生から生の英語を学ぶことになります。また、カリンズ先生からは22や23歳で異国に渡ってきた勇気と異国の青年のために尽くす精神、つまり自由と情熱を学び、その後の桜沢の人生に大きな影響を与えることになるのです(1952年に桜沢と小川二郎が編集したカリンズ先生の教え子たちによる追悼集には、桜沢の貴重な学生時代の思い出話が語られています)。

桜沢如一「カリンズ先生」

カリンズ先生の追悼集

病気のデパートと貧しさ

商業学校に通う桜沢は成績優秀、学業以外の博識でも群を抜いていて、弁論部の部長をやり、弁論大会では宗教問題などのむずかしい話題で大演説をし、教師たちを驚かせたりしたそうです。

また、新劇の女優、松井須磨子の「復活」が上演された時は、劇場主と交渉して入場料を割り引かせ、仲間を大勢連れて観劇し、あやうく退学処分になりそうになったりと、その後の大胆不敵な活動家としての片鱗を見せる一方、生まれつき体が弱く、普段は蒼白くダンマリな生徒だったそうです。

そして入学の頃から世津子と同じ肺結核による喀血( 気管・肺の気道出血)をし、その後も胃拡張、胃下垂、胃アトニー、腸結核、心臓、肺の疾患や痔などありとあらゆる病気を経験し、18歳頃にはとてもダメだという状態になりました。

しかも、その頃から孫太郎の失業によっていよいよ貧しさが激しくなり、病院にも行けず、世津子が傾倒した最新の栄養学によるオムレツや牛乳を摂ることもできなくなりました。しかし、そこで桜沢は不可解な体験をします。貧しさからご飯とたくあんと梅干しくらいの質素な食事しかできないのに、かえって身体は持ちこたえ、残り2年間の学業を修めて無事卒業することができたのです。この時の桜沢は、まだ「食養」を知りません。

しかし、父親の支配から自由になりたい、そして助けることができなかった最愛の母への思慕と虚弱な自分の身体という少年時代のみじめさから脱却したいという想いが、青年時代の「食養」という生命の原理との出会いにつながっていくのでした。

最新回は「季刊マクロビオティック ジャーナル」連載中

著者プロフィール

高桑智雄/たかくわ・ともお

桜沢如一資料室室長。
1970年生まれ。2001年に日本CI協会に入社し、桜沢如一の陰陽哲学に感銘を受ける。
故・大森英櫻のアシスタントを担当した後、フリーランスとして独立。
2011年より桜沢如一資料室の立上げ、運営に携わる。
編集・執筆に「マクロビオティックの陰陽がわかる本」「マクロビオティックムーブメント」」など。2015年発行の人気書籍「マクロビオティックの陰陽がわかる本」の編集者であり、 月刊マクロビオティック・コラム「Café de Ignoramus」連載中。

高桑智雄

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