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【第12回】資料で振り返る桜沢如一の思想と生涯

※月刊「マクロビオティック」2021年12月号より転載
※第27回以降は「マクロビオティック ジャーナル」にて連載中

第12回:壮年期⑥

ナビゲーター:高桑智雄(桜沢如一資料室室長) 協力:斎藤武次、安藤耀顔

フランスでの唯一無二の助力者

今回紹介する資料は、1934年(昭和9年)のフランスで撮られた桜沢42歳の時の写真です。隣に写っている男女は、残念ながら確実な情報はありませんが、当時、桜沢の秘書をしていた法学士であるアンドレ・クーキーユ氏にマルセルという夫人がおり、ちょうどポーレットという女の子が生まれたばかりであったことから、もしかしたらクーキーユ夫妻なのかもしれません。

桜沢如一

クーキーユ氏は、桜沢の1929年(昭和4年)から1935年(昭和10年)のフランス滞在で「無双原理」を確立し、パリ思想会に確かな足跡を残すためには、なくてはならないパートナーでした。

桜沢はまだ法科の大学生だったクーキーユ氏と出会い、貧乏で恐ろしい神経衰弱であった氏を食養指導で健康を回復させます。桜沢は、法科で優等生のクーキーユ氏が理屈に合わないこと、証明のできない理論、合点のいかないことは絶対に承認しない典型的な西洋的科学的青年だったため、食養の理論を伝えるために日本人にだったら何となく通じる曖昧な陰陽感などが、全く通用せずに苦労します。しかし桜沢は、西洋人の典型であるこのクーキーユ氏とがっぷり四つに組み、長い間毎日彼を理論で負かすことに努力をする過程で、食養の根拠としての「無双原理」の体系を確立することができたのです。

そしてクーキーユ氏は、無双原理の応用としての食養法を理解し、体験しながら生活する中で、 フランスでの桜沢の唯一無二の助力者として、桜沢の執筆や研究をサポートし、パリ思想界のつなぎ役としての秘書活動を行います。

7年間活動したフランスからの帰国

1935年( 昭和10年)に、桜沢は7年に及ぶフランスでの活動を切り上げ、日本に帰国します。その理由は、おそらく一つには欧州や東亜の世界大戦へと向かう国際情勢が影響していたかもしれません。そしてもう一つは日本の食養会の衰退にありました。桜沢が渡欧する前、食養会の会員は桜沢の努力で2000人にまで増えていましたが、桜沢が活動の中心から外れたことで再び会員は減少の一途をたどり、この頃には会員500名にまで落ち込み、運営も瀕死の状態になっていたのです。

1933年(昭和8年)の3ヵ月に及ぶ一時帰国も、食養会幹部からの必死の要請に応えてのことでした。そして、その2年後に桜沢は本格的に食養会の再建をすべく帰国するのです。その時、桜沢が秘書として伴って来たのがクーキーユ氏でした。また、桜沢はフランスの当時最小の小型飛行機であった「プー・デュ・シエル( Pou-du-ciel:空の虱しらみ)」の特許権を持ち帰ります。桜沢曰く、この特許権は発明者の健康を指導した御礼としてもらったもので、すぐに日本飛行機株式会社に売り込み、そこで設計と製作の指導をして、約2万円程の謝礼を受け取ったそうです。昭和初期は1円が2000円程度の価値なので、今の金額にして約4千万円もの利益をタダでもらった特許権から生み出したことになります。そして、桜沢はこの資金を元手に、食養会再建に乗り出すのです。

写真は、日本飛行機が桜沢から特許権を買取り、翌年に国産量産型として開発したNH-1「雲雀(ひばり)」の勇姿です。この「雲雀」という名称は、ユダヤ問題で軍部や参謀本部に講演に行く中で久邇宮朝融王の健康指導を行うことになり、その縁で息子の東久邇宮(第43代 内閣総理大臣)から賜ったものだそうです。

残念ながら、この飛行機は日中戦争が迫り、大型機の生産に追われる会社が製作を中止したため、量産されることはありませんでしたが、今でも日本飛行機株式会社のHPのヒストリーには、「1935年(昭和10年):フランスの軽飛行機「プー・ド・シェル」のライセンスを購入、翌年よりNH-1「雲雀」 として生産。以後1937(昭和12)年まで合計25機を生産。」と記載されています。

クーキーユ氏のフランスでの助力にしても、プー・デュ・シエルの特許権の入手にしろ、東久邇宮という大物による飛行機の命名にしろ、桜沢は決してお金を使ってそれらの権利を買っているわけではありません。これは桜沢のその後の人生で常に繰り返されることですが、桜沢はタダで「正しい食物」についての原理を教え、また健康を指導しているだけなのです。しかし、それが巡り巡って絶好のタイミングで桜沢の活動を助けていくわけですから、これはある意味、桜沢にとっての、無から有を生む宇宙の秩序だったのかもしれません。

著者プロフィール

高桑 智雄/たかくわ ともお

桜沢如一資料室室長。
1970年生まれ。2001年に日本CI協会に入社し、桜沢如一の陰陽哲学に感銘を受ける。
故・大森英櫻のアシスタントを担当した後、フリーランスとして独立。
2011年より桜沢如一資料室の立上げ、運営に携わる。
編集・執筆に「マクロビオティックの陰陽がわかる本」「マクロビオティックムーブメント」」など。2015年発行の人気書籍「マクロビオティックの陰陽がわかる本」の編集者であり、 月刊マクロビオティック・コラム「Café de Ignoramus」連載中。

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