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【第8回】資料で振り返る桜沢如一の思想と生涯

※月刊「マクロビオティック」2021年8月号より転載
※第27回以降は「マクロビオティック ジャーナル」にて連載中

第8回:壮年期②

ナビゲーター:高桑智雄(桜沢如一資料室室長) 協力:斎藤武次、安藤耀顔

記念すべき初期3部作

今回紹介する資料は、桜沢如一の壮年期最大のイベントである1929年( 昭和4年)の単身フランスへの無銭旅行出発の前に出版された初期3部作です。

1927年( 昭和2年)10月に出版された「日本精神の生理学」は恩師、西端學との共著としてですが、桜沢が初めて食養という世界で自身の名を冠した記念すべきデビュー作です。そして翌年6月には、桜沢初の単独著書として食養の祖師、石塚左玄の伝記である「石塚左玄」を発表します。さらに同年12月には「食養学序論」「食養学原論」「食養療法上下」「食養料理法」の5冊をセットにした食養の理論書である「食養講義録」という大作を出版します。

これら初期3部作は、桜沢が食養会に入会して10年を超える本格的な食養の実践と研究の中から生まれた決算的な作品で、その後の桜沢の思想展開や行動原理の基盤となる重要な作品群です。

日本精神の生理学としての食養

桜沢が食養に出会った時は当然ながら石塚左玄はこの世におらず、桜沢も「私の食養研究は石塚大先生直伝ではなく、西端先生と後藤( 勝次郎)先生のご指導によるものである」というように、桜沢のこの頃の食養研究は西端、後藤の両先輩からの影響の中で、左玄の思想の再理解と、その思想をどう今日的に再構築して社会にアピールしていくかということでした。それは東京に来て食養会の目を覆うような現状に直面して、再び左玄時代の食養の盛り上がりを自分の手で取り戻したいという想いからだったからかもしれません。

桜沢は、左玄の「郷に入りては郷に従え」に代表される風土食論を仏典の「身土不二」という用語を使い食養理論の支柱とし、地球の環境を「寒帯、冷帯、温帯、熱帯」の四地帯に分け、それぞれの地帯に衣食住の原則があるとする西端學の学説に強く共鳴していきます。そして、冷帯という厳しい環境が作り出した自然に対立的な西洋の精神に対し、寒冷温熱の四季の中で育まれる自然との調和的な日本の精神を発見していきます。それは、桜沢がローマ字による大和言葉のよみがえり運動で表現したかった「万葉集」の世界観であり、男女問わず天皇から民衆、乞食にいたる人々が、四季折々の自然を賛美する世界にも稀に見る日本の精神に連なるもので、左玄の食養こそが日本精神の正当な継承であったという確信でした。

「身土不二」というスローガンと共に「食養」こそが、日本精神を生み出す生理学だとする西端・桜沢の鮮烈な論説は「日本精神の生理学」にまとめられ、社会に大きな反響を呼ぶことになります。それは明治維新以来、西洋文化を金科玉条のように賛美し導入してきた時代から、徐々に西欧列強の暴力的な植民地主義が露わになり、日本の歴史や文化や精神を再評価する人々が増え、ナショナリズムが台頭してくる時代と呼応するように会員400人程度だった食養会は、なんと会員2000人余りへと大復活をしていくことになります。

 

ナトリウム・カリウムから陰陽へ

もうひとつ、この時期でとても大切な食養理論の転換があります。石塚左玄の食養論が「化学的食養長寿論」といわれる所以は、西洋の分析化学である無機塩類に着目し、食品中のナトリウムとカリウムの対抗性が身体に大きな影響を与えるという「夫婦アルカリ論」または「ナトリウム・カリウム拮抗理論」などと後に呼ばれる左玄独特の理論が
食養論の中心をなしていたからです。

しかし、西端はこの種の対抗性が単にナトリウムとカリウムの間ばかりに見られるものではなく、ナトリウムとカリウムばかりを主張する危険を深く心配していたのです。そこで桜沢は、両先生の意を汲んで、ナトリウムとカリウムに代表される両極性を「ナ性」と「カ性」というより多用性のある言葉で表現するアイデアを思いつきます。

「食養講義録」は、桜沢が全国各地で開催した食養研究会と講演をもとに、左玄の食養法を思想と理論、そして実践を体系的にまとめた大著です。この著で桜沢は、「ナ性」と「カ性」を用いて、ナトリウムとカリウム以外の様々な結合物をも包含した表現を試みています。そしてその「ナ性」と「カ性」は、東洋の陰陽論でいうところの「陽性」と「陰性」 に当てはめられることを論じています。

その後桜沢は、1929年( 昭和4年)の渡仏にあたって、この「ナ性」と「カ性」という名称を「陽性」と「陰性」という言葉に置き換えて、その意義を拡張することを決心し、西端に許可を求め、「それは面白かろう」と賛同を得ます。そして渡仏後、西洋科学を研究するにしたがって、この名称が適切で便利であることを悟り、ついに「無双原理」の確立へと進んでいくのです。

陰陽へ食養への陰陽の導入は桜沢の発案なのか?

桜沢が食養へ陰陽を導入していく過程を解説しましたが、実は左玄の食養法にも桜沢が登場する前から陰陽という言葉は使われていました。そもそも江戸の養生法はそのほとんどが陰陽五行説などの東洋医学の影響下にあり、その伝統を引き継ぎ、東洋医学にも精通していた左玄の食養法もまさに陰陽という思想が根底にあったといえます。いやむしろ陰陽の対抗性を、食品中のナトリウムとカリウムの拮抗性に見つけ化学的に養生法を展開したところに左玄の革新性があったのです。

ですから、食養に陰陽を持ち込んだこと自体は桜沢の独自性とはいえません。桜沢思想のオリジナリティーということになると、やはり渡仏後、西洋世界に食養の原理を伝えるために、易を元に陰陽の定理化を行い「無双原理」を確立したことだといえるのです。

著者プロフィール

 

 

高桑智雄/たかくわ・ともお

桜沢如一資料室室長。
1970年生まれ。2001年に日本CI協会に入社し、桜沢如一の陰陽哲学に感銘を受ける。
故・大森英櫻のアシスタントを担当した後、フリーランスとして独立。
2011年より桜沢如一資料室の立上げ、運営に携わる。
編集・執筆に「マクロビオティックの陰陽がわかる本」「マクロビオティックムーブメント」」など。2015年発行の人気書籍「マクロビオティックの陰陽がわかる本」の編集者であり、 月刊マクロビオティック・コラム「Café de Ignoramus」連載中。

 

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