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【第23回】資料で振り返る桜沢如一の思想と生涯

※月刊「マクロビオティック」2022年11号より転載
※第27回以降は「マクロビオティック ジャーナル」にて連載中

第23回:中年期⑧

ナビゲーター:高桑智雄(桜沢如一資料室室長) 協力:斎藤武次、安藤耀顔

1945年(昭和20年)8月15日、正午からラジオで放送された玉音放送により、ポツダム宣言受諾及び日本の降伏が国民に公表され、太平洋戦争はついに終結します。桜沢は南アルプス山中の長坂署の独房で終戦の日をむかえることになります。釈放されたのが8月23日で、この年の1月から投獄され、二百数十日間微速度ギロチンによる拷問を受けたため、視力80%と左足の自由を失う状態だったそうです。

それでも敗戦を予測していた桜沢は、全国民が打ちひしがれ呆然とする最中、出獄と共に間髪をいれず、戦後の「国民生活」新編成への提案を行い、戦前の皇国史観や反ユダヤ思想的表現を一掃し、一転して戦勝国である欧米の民主主義思想を取り込みながら、正しき食生活法、無双原理、宇宙の秩序に即した真生活法の普及活動を再開します。桜沢の中年期の後半は、戦後のゴタゴタの中、今までの鬱憤を晴らすかのごとく組合や協会の設立、定期刊行物の創刊、各地でのPUゼミナールの開催など怒涛のように展開していきます。そして二度とこのような悲惨な戦争を起こさないという世界の恒久平和確立の決意が、世界政府運動と世界の未来を創る青少年への教育という二つの大きな活動の柱となっていきます。

年代桜沢の略年譜出来事
1946年
(昭和21年)    
54歳 4月、神奈川県厚木にLC(女子勤労学院)を創設し、10月に横浜の大倉山精神文化研究所に移転し、YLC(横浜レーバーカレッジ)となる。アルバイト学生を収容、定期的にPUゼミナールを開催。第1回国際連合総会、コンピュータ「ENIAC」の登場、戦後初の総選挙、極東国際軍事裁判(東京裁判)始まる
1947年
(昭和22年)
55歳世界連邦建設運動(UWF)に加盟。世界政府・真生活協会を発足。学校給食が開始、インド・パキスタンが分離独立、日本国憲法施行
1948年
(昭和23年)
56歳著書「日本を亡ぼすものはたれだ」によって公職追放を受ける。日吉にM.I.(メゾン・イグノラムス)創設。「世界政府(SEKAI SEIHU)」創刊。帝銀事件、ビルマ独立、ガンジー暗殺、戦後初の夏季(ロンドン)・冬季(スイス)五輪が開催
1949年
(昭和24年)
57歳A New School(ANS)宣言、第一回公開ゼミナール開く。
「サーナ(SANA)」創刊。8月、ニューヨーク・世界政府連盟副総裁ノーマン・カズンズ氏来日一週間滞在。
東京証券取引所設立、北大西洋条約機構(NATO)設立、中華人民共和国建国、湯川秀樹が日本人初のノーベル賞受賞

日本が敗れた二つの原因

今回紹介する資料は、獄中で8月15日の終戦の数日前から、ある省庁の調査官の依頼で書き始めたとされる「ナゼ日本は敗れたか」というパンフレットの表紙です。桜沢自身がパンフレットと呼ぶのは、この本には書籍としての奥付がなく、おそらく出所後に書き足して印刷し、関係者に配布したもので、正式な出版物ではなかったからかもしれません。いずれにしろこのパンフレットは、戦後桜沢の最初の第一声としてとても貴重な資料といえます。

桜沢如一

桜沢はこのパンフレットの中で、日本が戦争に負けた原因を分析し、その原因を克服するための、新しい国民生活の新編成の具体的な提案を行います。そしてここで重要なのが、桜沢の日本の敗戦の二つの原因分析です。一つ目は遠因で「暗愚卑劣なる教育渡世者を手先として、国民をドレイ化した武力政治、官僚サーベル政治」、二つ目は近因で「国民の肉体を弱劣にした醫學、榮養學」であるとし、この二代原因が実は「實生活指導原理の忘却」という真の原因からくるものであるとします。

結局桜沢は、この「實生活指導原理」に無双原理、宇宙の秩序をとり入れ、それらを土台にした「真生活」の提案を具体的に行っていくのですが、戦前は批判の矛先が、暴力的な戦争や医学や栄養学をつくり出した西洋文明やユダヤ思想へ徹底的に向けられていたのに対し、このパンフレットでは、一切の批判を西洋に向けることはなく、一転して日本の鎌倉・戦国時代から始まる武力政治や近代の官僚による力の政治、そして西洋医学や栄養学の本質を理解せずに安易にとり入れた日本の御用学者たちを徹底的に批判していきます。

「むすび」が「MUSUBI」となって横書きになる意味

そして、もう一つ終戦直後の桜沢の心情を読み取れる貴重な資料があります(※注)。それは終戦後最初に発行された定期刊行物である「むすび No .114 」(10月1日発行)です。この号より「むすび」は、「MUSUBI」とローマ字表記のタイトルに変わり、縦書きから横書きのレイアウトに変更されます。桜沢は一面最初に「いよいよ新しい朝が来た。二年前から私は諸君に英語とローマ字を勉強せよ! と云って来た。シェリーマン(「P.U. 経済原論」第一章)風にやれば、英語ナンカ六ヶ月で卒業できる。ローマ字は一時間で覺えられる。私はローマ字國字化運動を三十年前からやっている。今後、本誌は英語、フランス語やローマ字をドンドン使ふ。今月號はその見本をチョッピリ示すに過ぎない。もう日本はなくなったのだ」と宣言します。

なんという変わり身の速さでしょう。そしてメインコンテンツには「ANGRO-SAXON SUPERIORITY(優位性)」や「AMERICAN SUPERIORITY」と第して、英国のユダヤ人にして首相にもなった作家、ベンジャミン・ディズレーリやアメリカの作家、アプトン・シンクレアを取り上げ、欧米人のエラさの研究として二人の人生を絶賛するのです。昨日までの欧米思想批判、そして日本精神の賛美が嘘のように、手のひらを返すかのような欧米賛美、そして徹底した日本批判に戸惑う後世の研究者もいるかもしれません。

しかし、実は桜沢の姿勢は何ら変わっていないのです。同じく「MUSUBI No.117」(1946年1月発行)」には、新年の挨拶で「謹賀新年とか賀正とか云うコトバはもう使いますまい。今年から私たちはできるだけヤマトコトバを使ひませう。支那の文字はできるだけやめませう。世界的な文字とコトバを使いませう。ヤマトコトバは世界的なコトバです。( 世界語でせう 将来の) 今は英語がセカイ語です、English speaking people が世界を指導する時です」と語ります。

つまり桜沢にとっての日本精神は、あくまで漢語や武士政治が入って来る前の古代日本の精神であり、その象徴がヤマトコトバだったのです。欧米の武力政権と日本の武力政権がぶつかって、日本の武力政権は吹っ飛んで消えてしまったのです。桜沢にとってはこんな痛快なことはなかったでしょう。そして桜沢の次なる運動の段階は、本来の日本精神を武力ではなく平和的に民主的に世界化していくことにあります。そのためには、まず世界の覇権を握った欧米精神の研究、そしてその欧米に日本精神を受け継いだ青少年を送り込むことが先決になるわけです。変わり身の速さは、潮目の変わり時に敏感な桜沢らしい行動原理と言えるのでしょう。

※終戦直後の「MUSUBI」は資料室には所蔵がなく、安藤耀願氏の個人所蔵からお借りして引用しました。

著者プロフィール

高桑智雄/たかくわ・ともお

桜沢如一資料室室長。
1970年生まれ。2001年に日本CI協会に入社し、桜沢如一の陰陽哲学に感銘を受ける。
故・大森英櫻のアシスタントを担当した後、2011年より桜沢如一資料室の立上げ、運営に携わる。2023年より電子雑誌「季刊マクロビオティックジャーナル編集長に就任。
編集・執筆に「マクロビオティックの陰陽がわかる本」「マクロビオティックムーブメント」」など。2015年発行の人気書籍「マクロビオティックの陰陽がわかる本」の編集者であり、 月刊マクロビオティック・コラム「Café de Ignoramus」連載中。

高桑智雄

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