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【第7回】資料で振り返る桜沢如一の思想と生涯

※月刊「マクロビオティック」2021年7月号より転載
※第27回以降は「マクロビオティック ジャーナル」にて連載中

第7回:壮年期①

ナビゲーター:高桑智雄(桜沢如一資料室室長) 協力:斎藤武次、安藤耀顔

昭和の始まりと共に始まる桜沢の壮年期は、貿易商を辞め食養運動に専念することで食養指導家として急成長していきます。江戸の養生思想や石塚左玄の食養思想への探求、またその後継者たちである西端學や後藤勝次郎らの影響、「易」などの東洋思想の研究から、徐々に桜沢の食養理論におけるオリジナリティーが出現していきます。そして、フランスでの武者修行の中で、それらの研究がついに「無双原理」として確立していくのです。

私生活では、最初の妻である栄子との離婚と次女・信子の死や両親のすすめでの再婚も一年で破綻するなど日本や世界を飛び回る活動の最中で、家族との関係は常に挫折を繰り返していきます。

そして時代は、世界恐慌、満洲事変と東亜の険悪なる風雲が立ち込め、ついに日中戦争、第二次世界大戦が勃発していきます。渡欧が制限される中、桜沢は食養会の事業発展に尽くしていきますが、その突出した存在感と「無双原理」という独自の思想展開から、一部理事会のクーデターにより食養会を追放されてしまいます。そして桜沢はこの転機を糧に中年期の新たなるチャレンジへと向かっていくのです。

年代桜沢の略年譜出来事
1927年   
(昭2年)
35歳 食養会監事に就任、「食養雑誌」編集主任となる。西端學との共著「日本精神の生理学」を発表。最初の妻、栄子と離婚。昭和金融恐慌 南京事件       
東京地下鉄道が開業
(上野~浅草間)
1928年
(昭3年)
36歳「石塚左玄」「食養講義録[全5冊](食養学序論・食養学原論・食養療法上・下・食養料理法)」を発表。全国各地で講演活動。大相撲ラジオ実況放送開始         
キリンレモンが販売
1929年
(昭4年)
37歳4月にシベリアを横断し、単身パリへと無銭旅行。どん底生活をしつつ、ソルボンヌ大学、パスツール研究所に学ぶ。東洋医学(鍼灸)、華道、柔道、句道、造園技術等の論文を各方面の新聞雑誌社に売り込み、発表する。世界恐慌
1931年
(昭6年)
39歳パリ・ヴラン社から仏文の最初の本「東洋の哲学及び科学の無双原理」と「花の本」を出版。滞欧中毎年1回は帰国し、そのつど迫りくる東亜の険悪なる風雲を一掃すべく軍令部、参謀本部に出頭、警鐘を鳴らす。満洲事変勃発

食養会にかけた情熱

桜沢の壮年期の二大舞台は食養会とフランスといえます。食養会は、石塚左玄が提唱した食養を普及・実践する団体で、左玄が亡くなる2年前の1907年( 明治40年)に設立されました。1917年( 大正7年)に社団法人化し、左玄が軍医だったこともあり、陸軍関係者も多く、医師や一般の実践者ら幅広い層に会員がいたようです。

桜沢は学生時代に京都で食養会の後藤勝次郎の講演を聞いたり、卒業後に東京の食養会本部を訪れたりしたことがあるようですが、本格的な食養の実践は貿易商時代に当時、食養会の花形的存在であった西端學の論文にナトリウム、カリウムなどの化学的、ないし科学的説明がなされていた点に強く惹きつけられ、食養会に入会した頃からでした。

「食養雑誌」は、食養会設立の年に発刊した機関誌で、資料室に残る1916年(大正6年)7月号には、新入会員一覧の6月入会に「( 神戸)櫻澤如一( 紹介者)ナシ」とクレジットされています。その後、桜沢が神戸で貿易商をする傍ら、この「食養雑誌」に「終身社員」という肩書で投稿を繰り返えす姿に、食養会の活動に一生涯を捧げる思いが伝わってきます。

今回紹介する資料は、1928年( 昭和3年)1月号の「食養雑誌(241号)」の表紙です。この頃桜沢は、神戸で起業した貿易会社「日本デブリ社」を廃業し、家族ともども上京し、中野に住みながら「食養会」と「日本のローマ字社」の社会活動に専心し、食養会では監事に就任し、編集主任として、この「食養雑誌」を編集していました。

資料室には、桜沢が保管していたと思われる明治、大正、昭和年代の「食養雑誌」がありますが、欠番も多く、現在資料室のメンバーが国会図書館や大学の図書館などに問い合わせながら欠番資料の収集を試みています。特に大正年代は、桜沢が食養運動に参加した詳細な理由を明らかにするのに大切な資料で、今後の収集活動の進展が期待されます。

928年( 昭和3年)1月号の「食養雑誌(241号)」の表紙

928年( 昭和3年)1月号の「食養雑誌(241号)」の表紙

思想の深化と食養会の盛り上りの陰で

桜沢が上京し食養会本部で活動を開始する頃、食養会はけっして活発な団体ではなかったそうです。桜沢は同じ想いを持って食養会に飛び込んで来た医師、林仁一朗や石塚左玄から直接指導を受けた後藤勝次郎の協力を得て、食養会再建へと邁進し始めます。そして、食養会は桜沢の独自の食養理論の深化と同期する形で盛り上りを見せていきます。

しかし、そんな桜沢の情熱的な活動の中で、妻・栄子は実家の新丸子に逃げてしまい、昭和2年に協議離婚が成立してしまいます。桜沢は自分で見つけた女である栄子にとても思い入れがあったようですが、子どもたちの世話をする必要から、両親の勧めで継母・マサの姪である高橋し奈とすぐに結婚することになります。し奈は、中野で栄子の長男・忠一と次女・信子の世話をすることになるのですが、信子はすぐに死んでしまいます。実は、信子は栄子のもとでジフテリアに罹り、東京駅の三等待合室で桜沢は、栄子に「あなたの食養で助けてみなさい」と引き渡されたのでした。しかし、中野での看病も虚しく、信子は3歳でこの世を去ります。桜沢は、後に「私は自分の子どもを自分の胸に肌であたためながら殺してしまった」と正食を広める者として、一人の幼児さえ救えなかった自責の念に苛まれたと回想しています。

その後、忠一は栄子に引き取られ、桜沢はし奈を両親の世話をさせるため京都に追い返してしまいます。桜沢の猛烈な活躍の裏にこうした私生活の現実があったことは忘れてはならないでしょう。そしてこの家族離散が昭和4年のフランス単身旅行への決心に、少なからず影響があったのかもしれません。

著者プロフィール

高桑智雄/たかくわ・ともお

桜沢如一資料室室長。
1970年生まれ。2001年に日本CI協会に入社し、桜沢如一の陰陽哲学に感銘を受ける。
故・大森英櫻のアシスタントを担当した後、フリーランスとして独立。
2011年より桜沢如一資料室の立上げ、運営に携わる。
編集・執筆に「マクロビオティックの陰陽がわかる本」「マクロビオティックムーブメント」」など。2015年発行の人気書籍「マクロビオティックの陰陽がわかる本」の編集者であり、 月刊マクロビオティック・コラム「Café de Ignoramus」連載中。

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