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【第5回】資料で振り返る桜沢如一の思想と生涯

※月刊「マクロビオティック」2021年5月号より転載
※第27回以降は「マクロビオティック ジャーナル」にて連載中

第5回:青年期②

ナビゲーター:高桑智雄(桜沢如一資料室室長) 協力:斎藤武次、安藤耀顔

モダンボーイの心の変化

「1920年秋 パリ、クレベール街リベッタ伯邸にて」と走り書きがある下の写真は、桜沢が熊沢商店で働きながら農商務省の海外実業練習生の制度を利用して1年間フランスへ留学した時のものです。

まさに外見はバリバリのモダンボーイですが、今までのような西洋文化への一方的な憧れだけでなく、食養の実践家として「西洋」を相対的に捉えた初めての渡欧といえるかもしれません。

当時桜沢は、パリのオペラ座の歌い手、マドモアゼル・テシエの家に下宿をして声楽の手ほどきを受けながら、枯淡な禅僧のような食養生活を送っていたそうです。そしてパリに5〜6軒あった菜食料理店を周るのですが、「いかにも野菜料理が下手でサラダばかりを食わせるから、まるで馬になったような気がした」と回想するように、すでにこの頃から欧米のベジタリアン思想と日本の食養思想の違いを意識していたと思われます。外見は最新の西洋文化を象徴するモボですが、その心の矛先は確実に東洋、そして日本の精神文化へと移り変わって行く時代といえるでしょう。

1920年パリの桜沢如一
1920年パリの桜沢如一

結構、新しモノ好きな桜沢

マクロビオティックは「昔の生活に戻ること」と思ってしまう人も多いようですが、桜沢は晩年、真空管によるコンピューターが出現したことを熱く語るなど、決して最新のテクノロジーを否定するわけではありません。いやむしろ、情報系のテクノロジーにおいては「新しモノ好き」と言えたかもしれません。

1920年( 大正9年)の実業練習生としての渡仏の成果として、桜沢は日本初の放送機と受信機を持ち帰ります。日本でラジオ放送が開始したのが1925年( 大正14年)ですから、5年も先んじての行動でした。また、無類の映画好きが高じてか、バルヴォ撮影機50台、デブリ社の高速度、微速度撮影機、生フィルム(コダック)も初めて輸入し、小型カメラや映写機を考案し特許をとるなどもしていました。

そして、そのデブリ社の高速度、微速度撮影機の日本の販売権を得て、1923年( 大正12年)に代理店「日本デブリ社」を創設し、ついに独立をするのです。これは9月に関東大震災が起こり、熊沢商店の横浜本社が壊滅し、首脳陣が神戸に移ってきたのがきっかけとなり、3人の部下を引き連れての独立劇だったそうです。

次号詳細を書きますが、この頃の桜沢はモダンガールである中西栄子との初めての結婚、長女の誕生、若社長としてベンチャービジネスへの挑戦という男としては血気盛んな、まさにイケイケの時代だったのです。

年代 歳   桜沢の略年譜 出来事
1919年   
(大正8年)
27歳ローマ字文芸雑誌「YOMIGAERI」を創刊。
「大和言葉のよみがえり」を提唱。
農商務省の海外実業練習生として渡仏。
映画雑誌「キネマ旬報」創刊
カルピス販売開始
1920年
(大正9年)
28歳日本最初の放送機と受信機をフランスより持ち帰り、ラジオ放送局の出発点となる。
また、デブリ社の高速度、微速度撮影機を初めて輸入。この頃、中西栄子と結婚。
国際連盟発足
松竹キネマ設立
1921年    
(大正10年)
29歳長女 孝子誕生
1923年
(大正12年)
31歳デブリ社の日本代理店「日本デブリ社」を設立し独立。関東大震災
1924年
(大正13年)
32歳「日本デブリ社」を廃業し、東京・中野に移り住む。「食養会」「日本ローマ字社」の仕事に一身を投ずる。
1925年
(大正14年)
33歳日本でラジオ放送開始

桜沢兄弟犬、ポオとキブラの実験

そんなビジネスマンとして波に乗る桜沢ですが、一方で生活の中での食養への熱はますます高まり、持ち前の実験精神から食養への確信を強めてきます。

熊沢商店時代、桜沢は現在の新神戸駅裏の生田川沿いの急坂を1㎞くらい登った山の中腹にある山荘に住んでいました。その山荘からはちょうど扇状に神戸港が望めたことから「扇の要家」と呼んでいたそうです。桜沢はここから毎日、徒歩と当時走っていた市電布引線に乗って三宮にある熊沢商店に通っていたのですが、この頃飼っていた2匹の犬の話は桜沢らしい実験精神のあらわれとして語り継がれています。

桜沢はポオとキブラと名付けられた兄弟犬のポオの方には玄米ばかりを与え、キブラの方には肉、魚などを多く与えたところ、ポオは明るく人懐こく、キブラは誰を見ても吠えて唸るような正反対の性質に育ったそうです。

ある日、桜沢が電車に乗って2匹を競争させると最初はキブラが少しも遅れず電車に着いて来るのに対し、ポオは遅れるのですが、いくつかの停留所を過ぎるとキブラがどんどん遅れて、しまいにはポオより遅れて、ついには座り込んでしまいました。桜沢はこの実験で食物の力の大きさをつくづく見せつけられたと回想しています。

桜沢はこの当時、玄米と塩と極少量の野菜だけの陽性な食事を自分の体に課し、激烈な仕事量をこなしながら、食養の精神風土である東洋の文学、哲学、医学、易学、天文学、宗教などの書物を読みあさり、万葉集に代表される和歌の道、日本の古典や益軒、芭蕉、親鸞、良寛などを生んだ「日本精神」へと急速に歩み寄って行きます。それは、日露戦争や第一次世界大戦の勝利により、明治以降日本が西洋文化の盲目的な輸入からの反発として、日本のアイデンティティーを取り戻そうとする時代との呼応もあったのかもしれません。

著者プロフィール

高桑智雄/たかくわ・ともお

桜沢如一資料室室長。
1970年生まれ。2001年に日本CI協会に入社し、桜沢如一の陰陽哲学に感銘を受ける。
故・大森英櫻のアシスタントを担当した後、フリーランスとして独立。
2011年より桜沢如一資料室の立上げ、運営に携わる。
編集・執筆に「マクロビオティックの陰陽がわかる本」「マクロビオティックムーブメント」」など。2015年発行の人気書籍「マクロビオティックの陰陽がわかる本」の編集者であり、 月刊マクロビオティック・コラム「Café de Ignoramus」連載中。

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