【第15回】資料で振り返る桜沢如一の思想と生涯
※月刊「マクロビオティック」2022年3月号より転載
※第27回以降は「マクロビオティック ジャーナル」にて連載中
第15回:壮年期⑨
ナビゲーター:高桑智雄(桜沢如一資料室室長) 協力:斎藤武次、安藤耀顔
桜沢はなぜ食養会を追われたのか?
今回紹介する資料は、1939年(昭和14年)に、撮影された桜沢47歳の時の写真です。後にある建物は、その2年前に桜沢が私財を投入して購入した麻布の食養会本部ビルです。注目してもらいたいのが、入り口に掲げられている「健康道場」という看板です。
もともとは食養会本部ビルの3階に設置されていたのは「瑞穂病院」であり、そこで桜沢を中心に全国の病人の食養指導が行われていました。しかし、医師免許を持っていない桜沢の医療行為が医師法に抵触し、検事局から閉鎖命令が下ってしまったのです。そこで玄関の看板は便宜上「健康道場」と改められたわけなのですが、その前に仁王立ちする桜沢の顔は口をムの字に噛み締め、とても険しい陽性な表情をしているように見えます。実はこの頃、食養会ではその事件を発端に内部抗争が勃発し、会長にまで上り詰めた桜沢が一転追放されるという劇的なドラマが展開するのでした。
1936年(昭和10年)に帰国し、食養会復権に全力で挑み、本部ビルの買収や活発な出版活動、そして瑞穂病院での食養指導や皇族や高官などへのロビー活動などで食養会は劇的な発展を遂げます。この唯一無二の先導者であった桜沢が、何故一転食養会を追われることになったのでしょう。
その大きな原因は、まずはその時代背景にあります。日中戦争が勃発し、国民は挙国一致体制の元、お国に尽くすことが求められ、社団という法人である食養会にも当然その役目は求められます。ところが桜沢の活動は、国体を支える体制側への批判や「無双原理」という一見現実離れした思想の主張、はては国家の法に抵触する医療行為と、およそ当時の常識的には受け入れられない過激なものだったのです。また、桜沢の陽性で強引な食養会の運営は、表面的には会員も増え盛況を極めているように見えましたが、身の丈を超えた食養会本部ビルの莫大な維持費に追われ、財政的には破綻寸前の状況にあったのです。
そこで起きた検事局からの「瑞穂病院」の閉鎖命令を契機に 、桜沢の方針に異を唱える一部の理事たちにより運営体制の刷新が突如図られ、桜沢は会長退任に追い込まれることになったのです。
食養会さようなら!
1916年(大正5年)に食養会に入会して23年間、食養会の発展に心血を注ぎ、頂点である会長にまで上り詰めた途端の退任劇、そして愛すべき食養会の運営体制からの撤退という憂き目に、桜沢はどんなに悔しい思いをしたことでしょう。その気持が写真の表情に現れているようです。
しかし桜沢は、すぐに食養会の中にいる自身の信奉者たちのためにも次なる活動へと進んで行きます。1939年(昭和14年)11月号の「食養」に「食養会よ! さようなら!」という記事を投稿し、桜沢は自分には食養以上の大きな仕事があり、それは「無双原理である!」と高らかに宣言します。そして桜沢は食養会には充分に尽くし、ここでの自分の仕事は終わり、後進のためにも引退する時だと記します。
翌1940年( 昭和15年)には、滋賀県大津市に活動拠点を移し、「無双原理講究所」という名実ともに、桜沢を中心にした無双原理の研究所を設立し、桜沢の活動は食養会から独立し新局面へと向かって行きます。
食養会への未練
半沢直樹バリの壮絶なドラマ
食養会の運営から一旦は手を引いた桜沢ですが、その後も食養会への愛情は冷めず、会員として「食養」への執筆活動は続けていきます。そして1941年( 昭和16年)に事件は起こります。桜沢はその後の食養会の運営、特に食養会本部ビルの売却に我慢できなくなり、弟子たちを本部に忍び込ませ、会員名簿を奪取し、会員全員に「食養会のこと」という桜沢退任劇の暴露冊子を送付してしまいます。
当然理事たちは、これを怪文書として激怒し、9月に開催された定期社員総会にて、桜沢の食養会からの永久追放を可決します。そして10月に発行された「食養」の社員総会号では、全ページに渡って桜沢を罵詈雑言で糾弾する記事が並びます。特に定期社員総会の議事録は、桜沢の追放が可決される瞬間、なんとすでに理事権のない桜沢が会場に突入し、議長から退出を命じられ、会場からの正反の罵声の中、押し問答の末に強制退出させられるという、まるで半沢直樹のドラマを見ているような緊迫した場面が記されています。
桜沢の「食養会のこと」での言い分と食養会の「食養」での言い分は、多くの点で行き違いがあり、お互いの主張で水掛け論となっています。おそらくどちらにとってもそれは真実であり、食養への熱い情熱があったからこその人間臭いドラマだったのでしょう。しかし、食養会はこれで桜沢という大きな求心力を失い、太平洋戦争勃発という時世の中、1942年( 昭和17年)頃、厚生省の意向で「家庭国民食中央会」と統合され、その歴史を閉じて行くのでした。
自分の人生をつぎ込んだ食養会の消滅、そしていよいよ混乱を極める日本の戦時下の状況で、桜沢は独立独歩の活動を始める中年期へと進んでいきます。
著者プロフィール
高桑 智雄/たかくわ ともお
桜沢如一資料室室長。
1970年生まれ。2001年に日本CI協会に入社し、桜沢如一の陰陽哲学に感銘を受ける。
故・大森英櫻のアシスタントを担当した後、フリーランスとして独立。
2011年より桜沢如一資料室の立上げ、運営に携わる。
編集・執筆に「マクロビオティックの陰陽がわかる本」「マクロビオティックムーブメント」」など。2015年発行の人気書籍「マクロビオティックの陰陽がわかる本」の編集者であり、 月刊マクロビオティック・コラム「Café de Ignoramus」連載中。