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【第21回】資料で振り返る桜沢如一の思想と生涯

※月刊「マクロビオティック」2022年9月号より転載
※第27回以降は「マクロビオティック ジャーナル」にて連載中

第21回:中年期⑥

ナビゲーター:高桑智雄(桜沢如一資料室室長) 協力:斎藤武次、安藤耀顔

真生活の実験場、「日野春PU村」構想

今回紹介する資料は、1944年( 昭和19年)の初頭に山梨県北巨摩郡日野春で撮影されたスナップです。桜沢は前年の11月に、滋賀県大津市にあった無双原理講究所の本部の引越し先を探すため、新潟に向かう途中で下車した日野春の南アルプスや富士山、八ヶ岳を望む絶景を見て、まるでスイスのようだと一目惚れしてしまいます。桜沢は即座に日野春を本部の移転地と決定し、駅前の唯一の旅館「志満屋」に仮事務所と事業部を置き、「日野春PU村」の構想を描きながら会員に移住を募ります。そして、翌年初頭に集まった移住者たちで、日野春駅前での記念撮影となったのだと思われます。

戦局の激化に伴い、多くの都市住民が疎開をした年にあたるので、この講究所の本部移転は、会員たちの疎開先の確保とも考えられますが、桜沢は「日野春PU村」を単なる疎開先ではなく、活動の当然の帰結、そして新たなる試みであると語ります。そこには桜沢の「無双原理」「宇宙の秩序」といった思想的完成に伴い、次なるステージとして、その思想を生活の中に組み込む「真生活」の実践の場としての必然的な意味があったのです。

桜沢如一

反戦活動と弾圧の激化の中で

桜沢は1941年(昭和16年)に、大津の無双原理講究所の他に、東京の拠点として神田駿河台に「むすび社」という小さな事務所を構え、2拠点での活動をしていました。ところがその年の9月に、そのむすび社に医師法違反の疑いで警察の手入れがあり、ちょうど桜沢が不在だったため、弟子であった森山シマ、小川みちの女性陣が西神田署に連行される事件が起こります。出頭した桜沢が見た光景は、若い女性二人が髪と帯を解かれた恐ろしい姿で、身の毛もよだつ思いだったと回想しています。結局、むすび社からは医療器具など見つからず容疑不十分で数日で釈放されるのですが、時世的に都市での治療的な食養運動の限界を感じざるを得ない状況にありました。

また、3月に桜沢は、冒頭に「近衛公以下日本のあらゆる指導者諸君! この重大難局にあたり、諸君が、皇国神ながらの道、世界観無双原理の体得実践することに全身全力をあげて努力しないならば、諸君は十年を出でずして前欧州大戦後ドイツが具さに嘗めた如き不幸と悲惨のドン底に日本を沈没せしめるでせう」と書いた『健康戦線の第一線に立ちて』を出版し、日本の敗戦を予想する論説を展開するのですが、6月には1931年(昭和6年)に出版した『白色人種を敵として』を改題してこの年に再販した『日本を亡ぼすものはだれだ』は反戦書として発禁となり、紙型および在庫二千冊余没収されるなど、確実に都市での表現活動も監視が厳しくなっていきます。

そこで桜沢は、翌年の1942年(昭和17年)に大磯の自宅を新潟の妙高高原に移し、都市での社会活動に見切りをつけて、田舎で「無双原理」「宇宙の秩序」を組み込んだ生活である「真生活」を実践する場所を求めて、ついに理想の地である日野春にたどり着いたという訳だったのです。つまり桜沢にとっては、それは単なる後ろ向きな疎開や田舎暮らしではなく、PUを実践する新しいコミュニティの創造へのチャレンジだったのです。

桜沢の唯一の土の匂いのする活動

桜沢のマクロビオティック運動の特徴として、食の運動にも関わらず、あまり農的な活動には向かわず、一貫して都会的な社会表現活動が中心であったのは、桜沢が武士階級の出身であり、京都という都会で育ち、神戸や横浜などの商業地での貿易の仕事が中心だったことに影響があるかもしれません。そんな桜沢の活動史の中で「日野春PU村」は、唯一土の香りがする活動と言えます。

桜沢は1919年(大正8年)の「食養雑誌」に「新しき村の人々へ送る書」と題した寄稿文で、1918年(大正7年)に武者小路実篤が、農業などの労働を分担しながら共同生活を送るコミュニティとして開村した「新しき村」構想を高く評価しつつも、そこに食養の原理がないことを嘆いていました。

それから桜沢の活動は「無双原理」、そして「宇宙の秩序」という思想展開と共に、単なる食べ物による食養運動から、それらの思想を生活のすべてで体現する「真生活運動」へと発展していきます。ここで大切なのが、今まで「食養運動」が最上位だったのが、食養は「無双原理」「宇宙の秩序」の生理学的一表現として、生活の中の一つに組み込まれてくことになるのです。つまり、食だけではなく、農業を含めたあらゆる生命活動の中に、「無双原理」「宇宙の秩序」を反映させた生活を実践する実験的共同体、つまり「PU的新しき村」のような構想が次なる段階としてあり、そこにちょうど疎開せざるを得ない状況が重なったと言えるのです。

桜沢は明確に、一人や少数の人々で田舎に閉じこもって自分たちだけのために自然な生活をすることを否定します。そして田舎でも文明の力である機械を駆使すると言います。つまり機械の奴隷になっている都会の人たちが、田舎で機械を奴隷化することによって、機械から人間を開放するのだと言います。この言説だけでも、桜沢が単なる田舎暮らしを求めていたわけではないことが分かります。

「日野春PU村」は300人規模のコミュニティを目指し、1944年(昭和19年)4月には50人に達していましたが、終戦のドタバタの中で自然消滅し、戦後桜沢の活動は、また都会での社会活動が中心となり、「MI(メゾン・イグノラムス)」などの都市型の小規模な生活共同体へと引き継がれていきます。しかし、桜沢の「食養運動」から「真生活運動」への重要な転換期に「日野春PU村」が果たした役割は大きく、桜沢の理想郷としてのコミュニティ論の解明は、今後の研究に委ねられます。

著者プロフィール

高桑智雄/たかくわ・ともお

桜沢如一資料室室長。
1970年生まれ。2001年に日本CI協会に入社し、桜沢如一の陰陽哲学に感銘を受ける。
故・大森英櫻のアシスタントを担当した後、2011年より桜沢如一資料室の立上げ、運営に携わる。2023年より電子雑誌「季刊マクロビオティックジャーナル編集長に就任。
編集・執筆に「マクロビオティックの陰陽がわかる本」「マクロビオティックムーブメント」」など。2015年発行の人気書籍「マクロビオティックの陰陽がわかる本」の編集者であり、 月刊マクロビオティック・コラム「Café de Ignoramus」連載中。

高桑智雄

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