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【第26回】資料で振り返る桜沢如一の思想と生涯

※月刊「マクロビオティック」2023年3号より転載
※第27回以降は「マクロビオティック ジャーナル」にて連載中

第26回:中年期⑪

ナビゲーター:高桑智雄(桜沢如一資料室室長) 協力:斎藤武次、安藤耀顔

GHQ占領下での公職追放

今回紹介する資料は、1948年(昭和23年)1月に京都で開催された無双原理大学講座( P.U.D )での集合写真です。この写真は、前年の10月に撮影された京都PU大会の集合写真と共に戦後になってから最初のものです。戦前最後の写真が1944 年(昭和19年)の初頭に撮影されたものなので、それから3年~4年の月日が経っていることになります。

桜沢如一

2022年11月号に掲載されるその戦前の写真と比べて見るとがっしりとした陽性な力強さがあった顔が、だいぶやつれて覇気のない顔になっていることがわかります。これは1945年(昭和20年)の終戦時の特高からの拷問がどれだけ凄まじいものであったかを想像させてくれます。

そして、マッカーサー元帥が率いるGHQの占領下で、ちょうどこの写真が撮影された1948年に桜沢は、公職追放されることになります。パージ (purge)と呼ばれた公職追放令は、GHQの司令の元、日本政府が1946年(昭和21年)から、軍国主義者の権力と軍国主義の影響力を日本の政治・経済及び社会生活より一掃する目的で、特定の人物が公職に付くことを禁止する政策でした。

分類としては、「戦争犯罪人」であるA項、「陸海軍の職業軍人」であるB項など7分類あり、桜沢はおそらく、「その他の軍国主義者・超国家主義者」であるG項による追放だったと思われます。アメリカのカリフォルニア州立大学サンディエゴ校の人類学者で、桜沢思想の研究者であるディラン・オブライエン氏の調査によるとアメリカの国立公文書記録管理局には、1948年4月に公職追放になった人物の一覧の資料が保存されており、児玉誉士夫や谷口雅春らと共に「S」の行に「櫻澤如一」の名が記載されているそうです。

また、超国家主義作家として公職追放を受けると、その期間に著作物の再販や出版をするためには民間検閲支隊に本を送って許可を得なければならなかったため、メリーランド大学図書館には、桜沢が当時再販、出版するために検閲に送った「宇宙の秩序」「ナゼ日本は敗れたか」「人間革命の書」が保存されていて、特に再販である「宇宙の秩序」は、戦前の皇国史観やヒトラー・ユダヤ関連の言説に、桜沢自らと思われる赤で校正がされている生々しい資料が残っています。

桜沢はこの公職追放に関しては、「私わ「追放」に對して異議申し立てわしなかつた。ナゼナラ、身にオボエがなかつたからだ。私わ、民主主義になつたら、國家から、天皇からオワビお第一に云われるべき人間の一人であるからだ。」と言って、政府の明らかな間違いとして全く意に介しませんでした。

なぜなら公職追放になった理由である1941年(昭和16年)に出版した「日本を亡ぼすものはたれだ」は、桜沢が戦前カモフラージュのためにあえて軍国主義的表現を加えた他の著作と違い、真正面から軍国主義を攻撃した作品だったからです。軍国主義を攻撃した作品を理由に、軍国主義を推進した危険人物として追放することは、明らかな政府の矛盾であり、大きな間違いであるというのが桜沢の主張だったのです。

結局桜沢は、救済措置としての異議申し立て制度も利用せず、1951年(昭和26年)の解除令が出るまでの約4年間、これを無視し続けて活動することになります。そして、解除するために特審局が追放者であることを認める申告書にハンコを求めると、桜沢はこれを再三突っぱね、桜沢一人のために特審局を閉めることが出来なくて困ったという桜沢らしい逸話が残されています。

マッカーサー元帥への6回の進言

ちょうど公職追放が解除される1951年は、マッカーサーがGHQを退任する年で、戦後1945年から始まるGHQの日本占領期は翌年の1952年(昭和27年)4月に終わります。桜沢は、戦後すぐにこのマッカーサーを、軍国主義を終わらせ日本に新しい民主主義の社会をつくるリーダーとして期待したのか、再三にわたって公開状を送付しています。

まず第1回は1945年にマッカーサーが厚木飛行場に降り立ち、東京へ入った9月に秘書の川口トシ子が直接、マッカーサー元帥に手渡したと言われる長いフランス語の手紙で、内容は民主主義の敵である特高制度を批判する「特高を追放せよ」や「神道廃絶令」などの5通に渡るものであったと言われます。そして第2回は、同じ年の末に、同じく川口トシ子が、桜沢が獄中で書いたパンフレット「ナゼ日本は敗れたか」を届けさせています。

第3回は、1946年5月に発行された「ル・コンパ」に掲載された「特配米を一俵もらふ法」と題した記事で、これをマッカーサーへの公開要望書としています。この記事で、戦後の食糧不足問題で当時の権威者が300万トンの米麦の輸入をしないと、1946年には2千万人の餓死者が出るという言説に、桜沢が猛烈に反論します。そもそも人間に必要な一日のカロリーを2400カロリーとして計算すること自体が不毛であるとし、それは必要量ではなく食欲量と痛烈に皮肉ります。桜沢は食養人は一日1300カロリーで十分に幸せに生きているし、胃腸の悪い人にたくさん食糧を与えても消化できず健康にもならないとし、マッカーサーに食糧輸入を決して実現してはならないと進言するのでした。

第4回は、1947年(昭和22年)115月に出版した「人間革命の書」です。桜沢はこの書のはしがきで、「私は三十五年間の「自由( 健康)と平和( 幸福)を確立する食生活」の指導の體験によつてキリストの精神を「新しき人間革命精神」に譯し、それを實生活化することによつて、この敗戰國を「一つの世界」の小さな一つの單位に轉身せしめる具體的な方法を示し、この敗戰國が數百年來海外諸國に負って來た大きな責務と、最後に全世界にかけた大きな迷惑のツグナイとしたいと思ふ。そのイミで私はコレを第四の進言としてここに元帥に送る」と書き、マッカーサーに対する敬意を表明しています。

しかし、1951年に送られた第5回、第6回の手紙では、マッカーサーの政策が大分陽性になってきたことを憂い、このままでは第三次世界大戦に発展する恐れがあるとし、戦争に終止符を打つことを進言しています。

いずれもマッカーサーからは返答がなかったようですが、世界の要人に対するオープンレターは、その後の桜沢の社会活動の中でも重要な手段となっていきます。

著者プロフィール

高桑智雄/たかくわ・ともお

桜沢如一資料室室長。
1970年生まれ。2001年に日本CI協会に入社し、桜沢如一の陰陽哲学に感銘を受ける。
故・大森英櫻のアシスタントを担当した後、2011年より桜沢如一資料室の立上げ、運営に携わる。2023年より電子雑誌「季刊マクロビオティックジャーナル編集長に就任。
編集・執筆に「マクロビオティックの陰陽がわかる本」「マクロビオティックムーブメント」」など。2015年発行の人気書籍「マクロビオティックの陰陽がわかる本」の編集者であり、 月刊マクロビオティック・コラム「Café de Ignoramus」連載中。

高桑智雄

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