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【第11回】資料で振り返る桜沢如一の思想と生涯

※月刊「マクロビオティック」2021年11月号より転載
※第27回以降は「マクロビオティック ジャーナル」にて連載中

第11回:壮年期⑤

ナビゲーター:高桑智雄(桜沢如一資料室室長) 協力:斎藤武次、安藤耀顔

年代 桜沢の略年譜 出来事
1933年
(昭和8年)
41歳 食養会本部の要請に答えて2度目の帰国。3ヶ月間滞在し、食養会の改革案を提出する。ヒトラーが独首相に就任。国際連盟を脱退。
1934年
(昭和9年)   
42歳この頃、フランスの医学雑誌「Guérir」に論文 La médicine divinatoire d’Extrém-Orientが掲載される。日本がワシントン条約、ロンドン条約の軍縮協定を一方的に破棄
1935年
(昭和10年)    
43歳フランス人秘書クキーユ氏を伴い帰国。超小型飛行機「空の虱」(プー・デュ・シエル)の専売権を持ち帰る。翌年二月飛行し、国産化される。田中さなゑ(後の桜沢リマ)と出会う。三女、道子を10才で失う。大本教が不敬罪・治安維持法違反で検挙。映画「のらくろ」公開。二・二六事件(昭和11年)
1937年
(昭和12年)
45歳社団法人「食養会」の監事に就任。月刊「食養」(明治40年11月創刊)は購読者1万人の盛況をみる。松竹発足。盧溝橋事件。日中戦争勃発。東宝映画設立。
1938年
(昭和13年)
46歳田中さなゑ(リマ)と結婚する。(正式に籍を入れるのは10年後)厚生省設置。国家総動員法の公布。
1939年
(昭和14年)
47歳食養会本部(芝田村町)付属の瑞穂医院(麻布霞町)閉鎖、「健康道場」と改める。理事会からの追放が決定され、「食養」11月号に「食養会よ!さようなら!」を発表し去る。東京の地下鉄・新橋-渋谷間、浅草-渋谷間が全通。第2次世界大戦勃発。

桜沢はスパイ?それとも陰謀論者?

1931年( 昭和6年)に桜沢はフランスでの生活を一旦切り上げ、3ヵ月の船旅で日本に一時帰国します。桜沢はその頃、原稿がポツポツ売れてきたとはいえ、パリの郊外に雑草を取りに行ったり、米は割れ米、荷こぼれ米を鳥の餌を売る店から買ったりと、相変わらず貧乏な生活を送っていました。

そんな桜沢が、なぜ当時膨大な費用のかかる船での日本との往復ができたのでしょうか? しかも、船での一時帰国は、その2年後にも行われます。そこで桜沢が来日時に行った参謀本部、軍令部への勢力的な講演活動などから、桜沢が政府から派遣されたスパイであったという説なども語られます。また、その講演で桜沢が伝えようとした欧州の「ユダヤ問題」は、今の時代からは荒唐無稽な陰謀論として片付けられてしまう内容だったこともあり、後世、桜沢がある種の隠密行動を行っていたかのような印象を与えるのです。

しかし、その印象はあくまでその時代や欧州の状況を肌で知ることができない現代の私達の錯覚といえるかもしれません。パリを中心に知識階級や上層階級と接触していた桜沢にとって、当時世界の情勢を支配するのは、国際金融システムを確立したユダヤ民族であり、西洋思想の中心は「ユダヤ思想」による物質や個人を重んじる科学、工業主義、経済思想、医学、栄養学であることに気づいていくのです。そして秘密結社フリーメーソンを起源とする他民族
奴隷化政策が、アジアの植民地政策にも及び、軍需工業によるユダヤ系資本家の繁栄のために、世界の金融機関、通信網、言論機関、新聞を支配下にして世界大戦へと導かれていくことが、桜沢には手にとるようにわかったのです。そして、それは当時の欧州ではそれほど突飛な考え方ではなかったのです。

桜沢の渡仏の目的は、西洋世界に日本精神、及びその精神の原理である食養道を伝えるためでした。そしてその過程で、西洋世界の親玉であるユダヤ思想に直面することになり、その力が今、東アジア最大の危機を起こそうとしているわけですから、桜沢は一刻も早くその危機を母国日本に伝えたかったのでしょう。桜沢はその当時の活動において、「政府や財閥の後援を少しも受けたことがない」と言っています。おそらくは少数の理解者の協力のもとでの自発的な行動だったのでしょう。

フランスでの確かな足跡

今回紹介する資料は、1934年(昭和9年)頃にフランスの医学雑誌「Guérir」に掲載された桜沢の「La médicine divinatoire d’Extrém-Orient」という論文の一部画像です。原本は残念ながら資料室にはありませんが、桜沢資料の収集家であるベルギーの医師で、後にアメリカに渡ったDr. Marc Van Couwenberge氏が所蔵していた原文を安藤耀顔氏が訳出した資料で、その貴重な内容を知ることができます。

「東洋の予知医学」と題されたこの小論文で桜沢は、日本と中国には、現在2種類の医者がいて、まずはヨーロッパ式の教育を受けて医師免許を取得する大勢の医者と、もうひとつは本当に少数の、また全く知られていないマスターによって根気よく養成される伝統医がいると言います。そしてこれらの伝統医を紹介する理由として、彼らが欧州の読者の知的関心を引いているからだとします。桜沢は、これらの東洋の伝統医の診断は外見、つまり髪の毛、目、鼻、歯、耳、あるいは手などの望診や脈診によって総合的に行われ、現在の症状だけでなく、病気を遠い先に至るま
で予知し、病気になるのを予防する医学なのだと解説します。そして西洋科学の中心であるユダヤ医学やユダヤ栄養学に行き詰まりを感じ、東洋の哲学や思想に関心を持つ知識層に向けて、この秘密を解明して欲しいと誘います。

その語り口は自信に溢れ、桜沢が当時フランスと日本を行き来しながら、着実にフランスの医学界に足場を確立していく姿を垣間見ることができます。

著者プロフィール

高桑 智雄/たかくわ ともお

桜沢如一資料室室長。
1970年生まれ。2001年に日本CI協会に入社し、桜沢如一の陰陽哲学に感銘を受ける。
故・大森英櫻のアシスタントを担当した後、フリーランスとして独立。
2011年より桜沢如一資料室の立上げ、運営に携わる。
編集・執筆に「マクロビオティックの陰陽がわかる本」「マクロビオティックムーブメント」」など。2015年発行の人気書籍「マクロビオティックの陰陽がわかる本」の編集者であり、 月刊マクロビオティック・コラム「Café de Ignoramus」連載中。

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