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【第16・17回】資料で振り返る桜沢如一の思想と生涯

※月刊「マクロビオティック」2022年4・5月号より転載
※月刊「マクロビオティック」に掲載された第16回に史実と違う記述が見つかりましたので、第16回を修正し第17回とともに再編集したものを公開されていただきます。
※第27回以降は「マクロビオティック ジャーナル」にて連載中

第16・17回:中年期①・②

ナビゲーター:高桑智雄(桜沢如一資料室室長) 協力:斎藤武次、安藤耀顔

食養会から独立をして、1940年(昭和15年)に活動の新しい拠点として滋賀県大津市の琵琶湖の湖畔に「無双原理講究所」を創設し、桜沢独自の食養運動が始まった矢先に、ヨーロッパは未曾有の大戦へと発展し、ついには日本も米国との太平洋戦争に突入していきます。

戦時下での桜沢の活動は、まずは戦争に勝つために国民的な食養普及を主張していきますが、日本は相変わらず西洋の借り物である科学や医学、栄養学の移入に終始している現状を見て、本場の西洋での国際競争力を目の当たりにしてきた桜沢にとっては、このままでは日本の敗北は必然であるとし、無謀とも思える反戦活動を展開していきます。

一方思想面では、食養会の枠組みが外れたことで、今まで石塚左玄の食養法の世界的普及ための原理であった「無双原理」を、健康と幸福のための生活指導原理として、名実ともに運動の最上位概念に位置づけます。そして形而下学的な有限の世界を支配する「無双原理」から、今度は形而上学的な無限の世界と有限の世界を貫く法則である「宇宙の秩序」という壮大な宇宙論に展開していくのです。

戦時下での肉体的、精神的な極限状況の中で、この壮大な宇宙論が発展していくことは一見矛盾しているようですが、桜沢にとってこの大戦は西洋思想と東洋思想の必然的なぶつかり合いであり、その根本的な解決策が、西洋思想と東洋思想を統合する宇宙観の構築だったのです。48歳から終戦の年である1945年(昭和20年)の53歳の中年期前半は、桜沢の人生に於いて最も激動の5年間だったと言えるでしょう。

年代 桜沢の略年譜 出来事
1940年
(昭和15年)    
48歳  9月、滋賀県大津市に無双原理講究所を創設。第1回健康学園を夏、宇治山田虎尾山と信州菅平高原で開く。大政翼賛会発会式、日独伊
3国同盟調印、伊が英、仏に
宣戦布告
1941年
(昭和16年)
49歳3月「健康戦線の第一線に立ちて」により露骨な反戦論、日本必敗亡国論を展開、10万部以上頒布する。6月「日本を亡ぼすものはたれだ」が、反戦思想として発禁される。紙型および在庫二千冊余没収、警視庁、検察庁、愛宕署、西神田署等にて再三留置され、残虐な取調べを受ける。真珠湾攻撃により太平洋戦争勃発、東条英機内閣成立、1942年(昭和17年)~東京で初めての空襲警報発令、ミッドウェイ海戦、シカゴで原子爆弾を製造
1943年
(昭和18年)
51歳7月頃、軍部の圧迫、右翼暴力団の迫害、日に日に増大する。日独共同声明、カイロ宣言、伊が無条件降伏
1944年
(昭和19年)
52歳 7月、日本敗戦近いことを断言し、第一戦にあるPU青年学徒40名に「オシモノヲツツシミ、サイゴニカツモノタレ」(上官の命に反抗すとも、必ず生きて帰れの意)の電報を発信。11月末、ソ連に日米の仲裁をさせようと密航してハルビンに到着。12月、単身馬に乗ってソ連国境の突破を試みるが逮捕される。満州国教育司長・田村敏雄の助けにより釈放され、帰国して妙高温泉に隠れてクーデターの新計画を練る。神風特攻隊がレイテ沖海戦出撃、連合軍がノルマンディー上陸作戦、東条英機内閣総辞
職、サイパン島玉砕、国際通貨基金・世界銀行が設立
1945年
(昭和20年)
53歳1月末、逮捕され新井署の零下10度の暗室に勾留され過酷な拷問、取り調べを受け、3月末に新潟署に移される。6月末、突然釈放されるが、 拷問の影響で左足の自由及び、視力80%失う。7月初、再びクーデターの計画をし、逮捕され甲府署に留置される。9月終戦により釈放され、「民主主義講座」を始め、「特高を廃絶せよ」等、5通の公開状をマッカーサー元帥に送る。10月「ナゼ日本は敗れたか」を出版する。12月、芝三田小山町、小林類蔵宅に、「真生活協同組合」を起こし、月間「コンパ」を発刊する。ヤルタ会談、東京大空襲、アメリカ軍が沖縄本島上陸、独軍の無条件降伏、広島、長崎に原爆投下、日本のポツダム宣言受諾、8月15日終戦の玉音放送、連合軍最高司令官マッカーサーが厚木に上陸、国際連合成立、GHQによる財閥解体指令

桜沢如一

「健康学園」からの再出発

今回紹介する資料は、1941( 昭和16年)8月に琵琶湖畔で20日間に渡って開催された「健康学園」の集合写真です。近江富士をバックに子どもたちに囲まれて、食養会時代のビシッとしたスーツ姿とは打って変わったラフな格好で満面の笑みをたたえる桜沢の姿が印象的です。

健康学園は、前年の1940年(昭和15年)に滋賀県大津市に設立された「無双原理講究所」が始めた少年少女向けに夏休みを利用して合宿型で開催された教育イベントです。この年に宇治山田虎尾山(三重県伊勢市)で第1回を、信州菅平高原(長野県上田市)で第2回を開催し、翌年第3回として写真の琵琶湖畔に加え、北海道洞爺湖畔、瀬戸内海の3ヵ所で開催され大成功を収めました。

健康学園の目的は、いよいよ戦況が激しくなる中で、将来を担う少年少女の健康を食養で確立することはもちろん、これからの子どもたちが、世界の平和と健康の時代をつくるための「世界観」を教えることにありました。おそらく桜沢はこの頃、食養会の内部抗争での疲弊や暖簾に腕押しの世界戦争を先導する指導者たちへの失望、つまり大人たちへの教育だけでは如何ともし難い思いにかられていたのではないでしょうか。そもそも子どもは本能を持って生まれてきます。桜沢はこの子どもたちを「まことの国の少年少女」と言います。そして、その本能を狂わせるのは「世界観のない大人たち」の学校教育であるとし、戦後も少年少女、青少年への教育事業は、桜沢の活動の中心を成していきます。

ともあれ、ここに映る桜沢の服装には、桜沢のこの頃の気持ちがよく現れています。食養会時代のきちっとスーツ姿にしかめ面はまさに大人たちと戦うための戦闘服だったのでしょう。それに対し、もちろん戦時下の物資不足もあるでしょうが、帽子に半ズボンというラフな姿で優しい笑みをたたえる表情は、食養会という大人の世界から開放され、純真なる子どもの世界で遊ぶという再出発の決意の現れだったのかもしれません。

桜沢の世界観の代名詞「魔法のメガネ」

2つ目の資料は、健康学園が開始された1940年(昭和15年)12月に発行された名著「魔法のメガネ」の貴重な初版本です。桜沢の著書で1・2を争う人気本で代表作のひとつと言える作品ですが、現行本のタイトルは「魔法のメガネ 物の見方考え方」となっているのに対し、初版本は「魔法の眼がね 少年少女のための世界観『無双原理』読本」となっています。

「魔法のめがね」初版
食養会から脱会して、石塚左玄の食物養生法という枠組みから開放された桜沢は、自身の食養普及活動の柱として「無双原理」を最上位に掲げ、食養のみならず全ての生活の指導原理として位置づけます。

ここで桜沢の思想の転換で重要なのは、食養の論拠( 原理や哲学)としての「無双原理」というだけでなく、誰もがどんな時でも簡単に応用できる世界観としての「無双原理」を目指したことです。つまり、それは子どもでもわかる「無双原理」でなくてはならず、まさに桜沢は健康学園で、実際に子どもたちに「無双原理」の話をすることで培われていくのです。

「魔法のメガネ」は、健康学園での子どもたちとのやり取りをふんだんに取り入れ、演劇の台本形式で「無双原理」の世界観を少年少女向けに解説することで、「無双原理」という硬質で重厚な哲学思想を「マホーのメガネ」というキャッチーでフレンドリーなイメージへの落とし込みに成功しています。

以後「マホーのメガネ」というキャッチコピーは、陰陽で物を見たり、無双原理で考えたりすることの意味で桜沢の代名詞となっていきます。

宇宙の秩序への前章

また、「魔法のメガネ」でもうひとつ重要なのが、ここではじめてこの世界が陰陽による組み立てであるという宇宙の入れ子構造、つまり翌年3月に発表される「宇宙の秩序」の前章が描かれていることです。写真の表紙も、モノクロでわかりにくいですが、真ん中の赤い丸を黄、緑、青、藍色が同心円状に囲い、最上位には紫色の闇が広がっている「宇宙の秩序」の初期型同心円図のデザインになっています。

1940年(昭和15年)の健康学園の開始がひとつのきっかけになって描かれた少年少女向けの「魔法のメガネ」は、桜沢の「世界観」を完成させる重要な記念碑的作品と言えるのです。

著者プロフィール

高桑智雄/たかくわ・ともお

桜沢如一資料室室長。
1970年生まれ。2001年に日本CI協会に入社し、桜沢如一の陰陽哲学に感銘を受ける。
故・大森英櫻のアシスタントを担当した後、2011年より桜沢如一資料室の立上げ、運営に携わる。
編集・執筆に「マクロビオティックの陰陽がわかる本」「マクロビオティックムーブメント」」など。2015年発行の人気書籍「マクロビオティックの陰陽がわかる本」の編集者であり、 月刊マクロビオティック・コラム「Café de Ignoramus」連載中。

高桑智雄

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