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【第22回】資料で振り返る桜沢如一の思想と生涯

※月刊「マクロビオティック」2022年10月号より転載
※第27回以降は「マクロビオティック ジャーナル」にて連載中

第22回:中年期⑦

ナビゲーター:高桑智雄(桜沢如一資料室室長) 協力:斎藤武次、安藤耀顔

終戦前最後の肖像写真

今回紹介する資料は、前号に引き続き1944年( 昭和19年)の初頭に山梨県北巨摩郡日野春で撮影された桜沢の52歳の肖像です。この写真以後、戦後1947年( 昭和22年)までの3年間は桜沢の表情を伝える資料がありません。おそらくは終戦へと向かう激動の最中で写真撮影などの余裕がなかったのだと思われます。

桜沢如一

一方この時期に書かれた書籍類は多数あり、1943年(昭和18年)と1944年(昭和19年)の2年間で「最後にそして永遠に勝つ者」「未開人の精神と日本精神」「バイキンの国探険」「兵法七書の新研究」「心臓を入れ替へる法」「永遠の子供」など約10冊の本を精力的に執筆しています。これは1943年( 昭和18年)にある講演会で来るべき日本の情勢を語った時に憲兵に密告され、それ以後活動を休止し、妙高の隠れ家に籠もり、著作活動に専念した結果と言われています。

しかし、桜沢の陰性な潜伏生活は続かず、いよいよ人生の最大とも言える無謀な行動へと進んで行きます。この写真の陽性な表情には、やはり行動の人としての桜沢の意志の強さが現れています。

停戦工作活動のためハルピンへ

1944年(昭和19年)7月に桜沢はいよいよ日本の敗戦が近いことを断言し、第一線にいる自分の弟子である青年学徒40人に「オシモノヲツツシミ、サイゴニカツモノタレ」の電報を発信します。「オシモノ」とは食べ物のことで、もうすぐ敗戦が近いので、「上官の命に反抗すとも、必ず生きて帰れ」とのメッセージだったそうです。

そして同年の11月末に桜沢はついに行動へと打って出ます。桜沢は中国の北東部でソ連との国境近くに位置する、当時満州国の配下にあったハルピンへと単身密航者として向かいます。その目的は、ソ連と満州の国境を突破して、モスクワに行って、日米戦争の仲裁案をソ連政府に買って出させるためでした。一市民の行動としてはあまりに無謀なことのように思えますが、食養運動は当時軍部や政界とのパイプが強く、桜沢にとっては命がけではあるがそれなりの勝算のある行動だったようです。

実際、当時満洲国濱江省長官をしていた田村敏雄は、桜沢の理解者であり、生涯の友人でしたが、彼の協力で旅券を作ってもらい、馬二頭、防寒服装一切、食糧などを整えてもらって、零下50度の極寒の12月のハルピンで桜沢は単身馬に乗ってついにソ満国境を突破しようと試みるのでした。

ソ満国境突破の失敗

結果的に桜沢のソ満国境突破作戦は失敗に終わります。いよいよ30日に出発の用意ができた時に、田村より満洲国の特務機関長土井将軍に了解を得ておかないと、国境を脱出した途端に後ろから銃殺されることを伝えられ、桜沢は特務機関に乗り込んで、土井将軍に三日間談判をします。しかし結論は「君は吉田松陰の立場、私は下田奉行の立場だから、絶対に国境脱出は許さない。君は銃殺だ」と談判は決裂してしまいます。

しかし桜沢は諦めることなく、ソ連領事館に二度の手紙を書き、ソ連の護衛で国境を脱出しようと領事館の表門をたたきますが、雪が一面に積もる領事館の広い庭で巨漢のロシア人二人と押し問答の末、門外へ放り出され、たちまち駆けつけた特務機関兵にしばり上げられてしまいます。結局桜沢は、特務機関から厳重に監視されていて、ソ連領事も関わり合いになることを恐れ、予め桜沢の手紙は二本とも即日に特務機関に届けられていたというわけです。そして桜沢は反軍行動の危険人物と認められ、軍で留置され、銃殺を待つという立場に追い込まれてしまいます。

ハルピンを脱出して日本へ帰国、そして逮捕

絶体絶命の桜沢を助けたのも田村でした。桜沢勾留の数時間後には、田村の必死の抗議で、内務省からの逮捕令状が来ている犯人として引き取られ、田村とニュー・ハルピン・ホテル所有者近藤繁司の協力で真夜中のハルピンを脱出します。そして、夜が明けた頃には、ハルピンから300キロ離れた一等寝台のコンパートメントの中でオートミールをすすりながら、雪一面の千里の広野を眺めつつ、新しい脱出方法を考えたと回想しています。

そして奉天や大連を回って会員達に帰国を呼びかけながら、自身も妙高の隠れ家へと帰る道すがら、東京で内務官僚、赤池濃などの要人に会い、外務省の一等書記官に頼んで蒙古駐屯地付近の地図や日本の司令部の構成を探り、蒙古に脱出し、軍のヒコーキを盗んでモスクワに飛ぶ計画を立てますが、妙高に帰り、日野春PU村の同士を集めた正月15日に粥雑煮でささやかな送別会を開いている時に、中山村警官隊の包囲をうけ逮捕、そのまま手錠を掛けられ雪の野を三里護送され、新井署に送られ地下の暗室に放込まれてしまいます。それから3ヵ月間桜沢は、日の光を見ない零下10度の独房で悪名高き特高の拷問を受け続けることになるのです。

釈放、そして新政府樹立のクーデター計画

3ヵ月新井署で勾留された後、新潟署に移送され、6月末に桜沢は突然釈放されることになります。その理由は、妙高の隠れ家から警察が押収して行った数千枚の原稿や数百冊の本は全部、皇国史観の歴史家であった平泉澄博士の手で調べられ、立派な思想の持ち主であることが証明されたからです。当時の反戦思想は、そのほとんどが左翼思想であり、右翼思想を持ちながら反戦を主張することは珍しく、特高も閉口するというなんとも桜沢らしいエピソードと言えます。

そして、まだまだ桜沢は諦めません。釈放され妙高に帰った7月に、桜沢は帝都防衛最高司令官に懇意にしていた飯村譲中将が任命されたことを知り、中将を説き伏せて軍を奮起させ、帝都を占領し、高位高官を全員巣鴨に放り込み、新政府を宣言し、縁のある久邇宮朝融王を総理とする内閣を組織し、英米に対し旧日本軍国主義政府は亡びたことを告げ、世界平和を協力して建設しようと申し込む一生一代のクーデター計画を練ります。

しかし、この計画も日の光を浴びることはなく、桜沢の身代わりでヤミ米200俵買入犯人として、甲府署に入れられていた弟子の森山シマを助け出す工作をしている最中、また甲府署に捕えられ、翌朝南アルプス山中の長坂署に移されてしまいます。そして8月15日に獄中で終戦を迎え、9月にマッカーサーの命により釈放されることになるのです。

桜沢の終戦間際の半年間のこれらの行動は、半ば伝説的エピソードとして語られることが多いですが、食養運動でつなげた縁を最大限に利用し、独力という最小限の力で世界を変える可能性のある緻密な戦略であったとも考えられます。その意味で、桜沢にとってはあくまで夢物語ではなく、本気で現実的な和平の実現を目指した行動だったと言えるのです。

著者プロフィール

高桑智雄/たかくわ・ともお

桜沢如一資料室室長。
1970年生まれ。2001年に日本CI協会に入社し、桜沢如一の陰陽哲学に感銘を受ける。
故・大森英櫻のアシスタントを担当した後、2011年より桜沢如一資料室の立上げ、運営に携わる。2023年より電子雑誌「季刊マクロビオティックジャーナル編集長に就任。
編集・執筆に「マクロビオティックの陰陽がわかる本」「マクロビオティックムーブメント」」など。2015年発行の人気書籍「マクロビオティックの陰陽がわかる本」の編集者であり、 月刊マクロビオティック・コラム「Café de Ignoramus」連載中。

高桑智雄

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