【第2回】資料で振り返る桜沢如一の思想と生涯
※月刊「マクロビオティック」2021年2月号より転載
※第27回以降は「マクロビオティック ジャーナル」にて連載中
第2回:幼少期・少年期①
ナビゲーター:高桑智雄(桜沢如一資料室室長) 協力:斎藤武次、安藤耀顔
西洋の文物が盛んに輸入される明治のど真ん中に生まれ、弟妹の相次ぐ死、11歳で最愛の母の死を経験した幼少期、そして文学を志しながらも父親の反対から商業学校へと進む貧しい少年期は、桜沢が抗うことのできない人生の厳しさを知り、その後の自主独立の精神や生命の原理である「食養」を発見していくまでのプロローグとしてとても重要な時代です。
桜沢如一が生まれた時代
桜沢が生まれたのはちょうど明治時代の中頃、1893年(明治26年)10月18日です。この時代は265年間続いた江戸時代が終わり、明治新政府による日本の近代化が急速に整備される時代です。桜沢が生まれる4年前にはアジア初の近代憲法である「大日本帝国憲法」が発布され、新橋〜神戸間には東海道線の全線が開通しました。そして桜沢が生まれた頃には、近代的な国力を身に付けた日本は日清戦争、日露戦争と世界戦争の時代へと突入していきます。
約250年間の鎖国時代に深められた儒学( 朱子学、陽明学)、国学といった東洋及び日本独自の思想や食に代表される伝統文化が根付いた空間に、激流のように西洋思想や文物が流れ込んでくる時代です。大航海時代から始まる欧米列強のアジア諸国に対する植民地政策が、極東の国、東洋思想の最後の砦である日本についに及んで、東洋と西洋の思想の最後のぶつかり合いの最中に桜沢は生まれるのです。
桜沢の略年譜と出来事 | |||
年代 | 歳 | 桜沢の略年譜 | 出来事 |
1889年(明治22年) | 大日本帝国憲法発布、東海道線全通(新橋~神戸) | ||
1893年(明治26年) | 1歳 | 10月18日京都に生まれる | |
1894年(明治27年) | 2歳 | 日清戦争開戦 | |
1895年(明治28年) | 3歳 | 京都で市街電車開業 | |
1901年(明治34年) | 9歳 | 与謝野晶子「みだれ髪」刊行 | |
1903年(明治36年) | 11歳 | 母・世津子が肺結核にて死去 享年32歳 | |
1904年(明治37年) | 12歳 | 日露戦争開戦 | |
1905年(明治38年) | 13歳 | 夏目漱石「吾輩は猫である」連載開始 | |
1908年(明治42年) | 16歳 | この頃から肺・腸結核をはじめ、多くの病気で苦しむ | |
1912年(明治45年) | 20歳 | 豪華客船タイタニック号沈没、明治天皇崩御、「大正」と改元 |
桜沢家、最後の幸せな家族の肖像
今回紹介する資料は、1899年( 明治32年)頃に撮られた桜沢7歳の頃の貴重な桜沢家の家族写真です。右上が父親である孫太郎、そして左側が母親の世津子です。桜沢はこの二人の間に長男として京都で生まれました。孫太郎は和歌山県新宮の何代も続く名家の出身で教師の職に就いていましたが、世津子と結婚すると京都で一旗揚げようと上京した直後に嵯峨野の天龍寺の辺りで産み落とされたそうです。桜沢は成人して神戸の貿易商へ就職するまで、市街電車が開業するなど開発が進む都会である京都に育ったことになります。そして左下の子どもが3歳下の弟、健次です。
桜沢は生まれつき体が弱く、一回目の生まれ月を迎える前に5回も死にかけたそうです。またこの後、次々と生まれた女児二人も幼少で亡くなったので、4人の家族写真ということになります。そしてこの写真が「幸せな家族の肖像」としての最後の写真になります。
というのはこの後、なんと父・孫太郎は恋人を作り、家を出てしまうのです。如一と健次を抱えた母、世津子は看護学と助産婦学を学んで助産院を開業して、一人身を粉にして働きました。しかし、その苦労がたたってか当時不治の病とされていた肺結核に罹り32歳の若さで亡くなってしまいます。そして不幸は続き、唯一の弟・健次も16歳で母と同じ結核で亡くなります。
このなんとも悲劇的な幼少期の家族崩壊が桜沢のその後の人生に大きな影響を与えたことは想像に難くありません。
交差する父と母の世界観
明治という時代は、いわば江戸時代からの封建的な気風と海外から持ち込まれる新思想が混在する世界といえます。そういう時代を背景に桜沢にとって、孫太郎は封建的世界の象徴であり、世津子は自由な新世界の象徴だったのかもしれません。桜沢は、後に「モトモト武士の家に生まれ、大の国スイ主義に育てられていた私も、亡き母によって欧米風の思想や生活様式の洗礼をうけ」と言っています。
面白いのは、最愛の母がキリスト教の教師である新島譲の門下になり、西洋文明風な思想と生活法を盛んにとり入れ、最新の栄養学に則ってパンとミルクとオムレツを食事として健康を害していったのに対し、憎き父が世津子の死後、家に連れてきた大嫌いな継母マサが、逆に古風な女性で質素な食養的な食事を志向していたというところです。つまり最愛なる母は、後に桜沢の攻撃対象になる西洋思想の象徴で、憎むべき父の中に愛すべき東洋の伝統的世界観を見つけるわけですから、何とも皮肉なことです。そういう幼少期の複雑な経験が「陰の中にも陽、陽の中にも陰がある」という陰陽の原理の発見にもつながっていくのかもしれません。
桜沢の鉄板ネタ「女難の相」
厳しいイメージのある桜沢ですが、幼少期・少年期を関西で過ごしたこともあって、講演の録音データなどを聞くと、関西人らしいジョークを交えた落語調のような語り口をします。そんな中で、桜沢の幼少期の想い出で必ず笑いをとる鉄板ネタがあります。それは10歳の頃、母親に連れられた夜店で易者の占い師に「女難の相がある」と言われたこと。桜沢は何度かの結婚の失敗を自虐的に話し、観衆の笑いを誘います。そしてそれ以来、人の相を見てその行く末を当てるという事に興味を持ち勉強し始めたので、「私の無双原理の研究は10歳頃から始まった」と豪語するのでした。
著者プロフィール
高桑智雄/たかくわ・ともお
桜沢如一資料室室長。
1970年生まれ。2001年に日本CI協会に入社し、桜沢如一の陰陽哲学に感銘を受ける。
故・大森英櫻のアシスタントを担当した後、フリーランスとして独立。
2011年より桜沢如一資料室の立上げ、運営に携わる。
編集・執筆に「マクロビオティックの陰陽がわかる本」「マクロビオティックムーブメント」」など。2015年発行の人気書籍「マクロビオティックの陰陽がわかる本」の編集者であり、 月刊マクロビオティック・コラム「Café de Ignoramus」連載中。