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トークセッション 「月刊マクロビオティックの原点を探る」後編

月刊「マクロビオティック」2023年3月号より転載

斎藤武次(元MI生・桜沢如一研究科)× 安藤耀顔(桜沢如一研究家)
× 高桑智雄(桜沢如一資料室室長)

安藤耀顔

安藤耀顔氏

「世界政府新聞」から「新しき世界へ」

高桑「世界政府新聞」が「新しき世界へ」に変わっていく段階になりますよね。1959年2月に発行された280号は、新聞形態でしたよね。なぜタイトルが変わったのでしょう?

安藤一つは真生活協会が壊れてしまって、霞町の小さなところで新しく日本CIという形で再出発していくための改題ということと、一番大きなキッカケは、世界政府運動の一つで世界市民共和国というものがイギリスに本部があり、そこで開催された会議に、桜沢先生が代議員として選ばれたことです。なんと日本人として一人、東洋人ということでしたら二人、もう一人はベトナムの人ですけれど、それで、今度自分が議員になった世界市民共和国というものは、世界政府へのステップになると考えるのです。

斎藤 それでは「新しき世界へ」というのは、その世月刊雑誌となった「新しき世界へ」1959年2月発行された新聞形態の「新しき世界へ」280号界市民共和国のことなのですか?

安藤世界人とも世界市民とも言うのですけれど、世界市民共和国というのは一つの運動なのです。しかし世界中が知っている訳ではなくて、一部なのですけれど、そこから新しい世界を作ろうという、そういう流れだったと思うのです。ですから桜沢先生は「新しき世界へ」と改題したのだろうと思います。桜沢先生にとっては、具体化して、ワンステップ上に上がったという感じだと思います。

斎藤 しかし、これはスムーズにいったのではなくて、2年間ぐらい、非常に大変な時代がありましたね。「新しき世界へ」に入る前に「MI通信」が26冊くらいあるのです。

安藤当時、桜沢先生の会員に対するツールがなくなっていましたからね。

斎藤:その時は、クレマンの方から真生活協会を辞めるということで、桜沢先生から追放を受けて、クレマンも意地っ張りですから、逆に桜沢先生の誕生日に合わせてMIを解散して逆襲しているのですね。

安藤「MI通信」は、最初は桜沢先生のPUレターを載せていました。それでMIの解散問題があって日本CIを作ったのですね。日本CIは世界政府無双原理研究所日本支部の略称です。当時もう既にパリに本部が出来てしまっていたので、日本支部になっています。

日本CIとして活動している中で、桜沢先生の世界市民共和国の代議員当選というニュースが入って、そこからまた「新しき世界へ」を作ろうということになったのでしょう。

高桑その当時は、「コンパ」も「サーナ」も「世界政府新聞」も一時途絶えていて、「MI通信」が繋いで、そこに日本CIが出来て、この「新しき世界へ」の新聞バージョンが出たということでしょうか。それが20号ぐらい続いて、300号で雑誌形態になるのは、なぜでしょうか?

安藤ちょうどこの頃、桜沢先生はアメリカに戦後では初めて渡ったりして、そういう記事を桜沢先生がみな書いているのですが、読んでいる人が少ないということが分かって、新聞を止めて、もっと昔の「コンパ」に近いものにしよう、となったのです。それでもこの貴重な「新しき世界へ」の冊子版は、読む人が少なかったようですね。

高桑「コンパ」も「サーナ」も終わって、「世界政府新聞」は「新しき世界へ」の新聞バージョンとして再出発したけれど、それを全部統合する形みたいな意味合いがあったのですね。

「新しき世界へ」280号

1959年2月発行された新聞形態の「新しき世界へ」280号

桜沢存命中の「新しき世界へ」の冊子版

高桑月刊雑誌となった「新しき世界へ」300号から、桜沢先生が亡くなる1966年ぐらいまでは、ほぼ桜沢先生の論文集みたいなイメージで良いのですかね。

安藤これはすごく重要なのです。僕が日本CI協会にお世話になったのは、1973年か74年ですが、大学時代に具合を悪くして、最初は小川みち先生にお世話になり、学校の先輩から桜沢先生の「東洋医学の哲学」と「新食養療法」を借りて読んでみてたらハマってしまったのです。

その頃日本CI協会は橋本政憲編集長だったのですが、まだまだ桜沢先生の正食とPUを基軸にしていて、もちろん立役者は大森英櫻先生でしたけれどずっと講義をしていて、僕は半年通っていたのです。その頃に「新しき世界へ」の300号から339号までとか、いろいろな復刻版を出してくれたのです。

高桑桜沢先生が生きておられる頃のですね?

安藤そう、月刊雑誌になった最初ですよね。僕の桜沢思想の吸収の原点は、「新しき世界へ」の300号からです。桜沢先生のステップは、さらにここで上がりますよね。ケルブランの発見とか、アメリカでの宇宙の秩序対数スパイラルの完成、健康の七大条件とか、みんなここに入っていたので、僕はこれを何度も読んで、これはすごいなと思っていました。桜沢先生の思想が完成というかテッペンまでいったのは、ここからだったのです。

斎藤300号は、世界市民共和国のロゴがまだ入り続けていましたね。

安藤 最後の方ですね、無くしたのは。桜沢先生が「無くせ」と言って…。

高桑それは「新しき世界へ」での世界市民共和国の意味合いが、役割を終えたということなのですね。特にこの時代のおすすめはありますか?やはり304号の「無双原理天文学入門」、306号の「原子から太陽系まで- 萬有引力の否定」、307号の「生命とは何か」、そして308号の「対数スパイラル図」は外せないですよね。

安藤桜沢先生はその流れに乗って、ニューヨークでスパイラルを完成させた訳です。ただマック佐々井さんの一言でこの流れが出来ていくのですから、桜沢先生と他の人とのコラボレーションなのです。

僕はずっと桜沢先生の生涯を見ていますが、桜沢先生は一人ではないのですよ。いろいろな人との繋がりの中で、あるいは「TIME」のような雑誌の小さな記事を読んで、それを自分の思想の中に貪欲に取り入れていく、やっぱり陽性なのでしょうけれど、吸収とコレスポンデンスが大きな一つの思想を作り上げてきた、ということではないかなと思います。

高桑この辺りは、本になったわけではないので、この「新しき世界へ」でしか読めないという希少性がありますよね。

安藤しかも最初は300部くらいしか刷っていないのです。とにかく読んでいる人が少なかったのですよ。だから、小川みち先生も「かたみ」という本を出しましたけれど、宇宙の秩序の解説は、六段階の古い方です。

高桑それからすごい進化していますからね。

安藤最後まで僕は進化したと思います。

高桑斎藤さんはどうでしょうか?

斎藤:336号の「71歳の時の感想文」と、361号の「74歳になって想う」という記事は、一度読んでおいた方が良いのではないかな、と思いますね。

高桑桜沢研究において、桜沢思想の完成されたこの300号から364号ぐらいまでと、亡くなる年に掲載された「世界恒久平和憲章」や「意志教育五十年の実験報告」などの最晩年の論文は絶対に読むべき文献だと思うので、この辺りが今回電子化で全部読めるようになるかもしれないということは、更なる桜沢研究の深まりが期待できると思います。

安藤「居敬」(敬に居る)という詩が、桜沢先生にとっての世界政府の最終的な精神を表しているのではないかと思いますね、静かな。書かれたのは亡くなる少し前ですけれど、僕は桜沢先生は、ここに辿り着いていたのだろうと思いますね。

斎藤本当に亡くなる数時間前まで講演をしていましたね。

高桑そうですね。午前中まで講演していて、午後夕方5時くらいに倒れたということですね。

安藤その日は、女性のグループに講演をしていたのです。ベトナム戦争の話です。晩年、桜沢先生の心を占めていたのは、ベトナム戦争です。これは間違いないです。ですから、現実的な世界の中で、戦争は桜沢先生にとっては大きな問題だったわけです。

高桑なるほど。その現実的な問題解決のために、この宇宙論的な思想が同期して深まっていくのは面白いですね。

月刊「新しき世界へ」

月刊雑誌となった「新しき世界へ」

桜沢亡きあとの「新しき世界へ」の展開

高桑1966年4月24日に桜沢先生が亡くなられた以降は、日本CI協会が引き継ぎました。主に編集長は橋本政憲さんで、私がCIに入った頃の上司だった花井陽光さんが1991年11月号から編集長になっています。橋本さん時代の「新しき世界へ」で何か特筆事項はありますか?

安藤桜沢先生が亡くなった後は、全然読んでいないです。直後のものは全然知らないですけれど、僕がCIにお世話になった頃からの「新しき世界へ」は、ずっと読んでいました。やはり桜沢先生の雰囲気が残っているのです。一番は今の「月刊 マクロビオティック」と違って、桜沢先生の論文がたくさん掲載されていました。

高桑しかも食養会時代の論文やGOレターとか、あらゆるところから引っ張ってきていますね。

安藤「MI通信」からもとっていますので、すごいな、と思います。

斎藤橋本さんが編集されていた期間を私も調べてみたのですけれど、約20年近くあるのです。桜沢先生の昔からの論文を収録していった功績は、本当に称えるべきと思います。

安藤そう思います。特に僕は「東洋医学の世界的使命」(585号)です。桜沢先生がフランスに食養普及に行っていた時の講演など、どのような働きかけをしていたかがよく分かります。「世界政府新聞」からも相当掲載してくれているのです。

もう一つは、GOレターを何度も掲載しているのです。1号からずっと。こういうものは、もう一度日の目を見てくれると、例えばシュバイツァーとの対決も、きちんと桜沢先生の言葉として読むことができますね。

「新しき世界へ」の桜沢如一特集

橋本政憲編集長時代の「新しき世界へ」の桜沢如一特集

「新しき世界へ」から「Macrobiotique」へ

高桑そして「新しき世界へ」は、1995年4月号の691号から「Macrobiotique」へ改題されて現在まで続いて来ました。改題当初は、私の上司であった花井陽光さんが編集長で、マクロビオティックだけでなく、精神世界や古代文明、また坂本龍一氏にインタビューしたりとかなり攻めた内容でファンは多かったと思います。

そして、桜沢先生のニューヨーク講演の書き起こし連載も10年くらいは続いていましたが、時代とともに桜沢色は薄れていって、よりライト層向けの内容や料理教室の広報誌としての役割に変わっていくわけです。しかし、今回こうして電子版季刊誌「マクロビオティック ジャーナル」として生まれ変わり、マクロビオティック業界の情報誌として発展していく過程で、また原点である桜沢思想への回帰を目指して行くことになると思います。

最後のまとめとして、今後どのようなことを期待しますか?

斎藤私は、あまり陰陽という言葉を使わないで、PUの真髄というか生き方を、あらゆる人に対して壁を作らない方法でやっていった方が良い気がします。これは一番難しいですが、若い高桑さんたちが頑張ってくれればと思います。

高桑安藤さん、月刊誌の歴史の意義とこれから期待することはありますか?

安藤桜沢思想は、「食は神なり」というところなのですよ。これは桜沢先生にとってはすごく核になる思想だろうと思っていて、そこまで言い切った人はあまりいないと思います。桜沢先生は正食という形で示してくれて、一応曲りなりにも少しやってみると、何となく実感が出来てくる。そこからスタートすると、今まで桜沢先生への疑問があっても、桜沢先生の本当の確信的な思想と実践というものを掴むことができるのではないかな、と思うのです。

そういう意味でこの「新しき世界へ」という雑誌は、桜沢先生が亡くなった後のものでも、大きなヒントを与えてくれるので、僕としては原点に戻っていくような、あるいは常に原点に焦点を当てて、そこから発展していくような、そういう感じで高桑さんが中心になって、一つの媒体を作ってもらえれば良いのではないか、と思います。

高桑ありがとうございます。少し時間がかかると思いますが、将来的には原点に戻りつつ、同時に桜沢思想がもっとこの世界に、今の時代ならではの伝わり方をするような媒体にしていきたいと思います。歴史を閉じさせないのが私の役割で、とにかく継続すれば桜沢思想に興味を持ってくれる人たちが集まってきて、また新たな潮流みたいなことが出来るかもしれませんので、その辺りは頑張っていきたいと思います。お二人には今後もご協力をよろしくお願いいたします。

プロフィール

斎藤 武次/さいとう たけじ

1935年1月、埼玉県生まれ。19歳の夏、桜沢如一主宰の「メゾン・イグノラムス(MI)」へ入所。入所半年後には念願の世界的平和運動「世界政府」新聞の編集に携わる。その後は一旦地元に戻って、県内の自動車販売会社に勤め、会社を辞めて独立後の35歳の時には私設「モニコド文庫」として、再びマクロビオティック関連本と雑誌の収集と整理に専念、その後2008年2月には手造り本「知らなかった國よ」の第1刷を平成堂より出版。2015年3月には同書を文庫化して文芸社より出版。2011年より日本CI協会「桜沢如一資料室」に参加、その後は主に執筆活動に専念。ここ2年の間にマクロビオティックの研究本として、食養の始祖ともいわれる石塚左玄、身土不二の西端学、そして桜沢創見によるマクロビオティックのモノの見方を論考した「マクロビオティックの世界観」巻1、巻2、巻3の3冊を出版(あうん社)。また、この度は文芸社から「食べ物から見える世界」と言うエッセイ集を出版するチャンスをいただきました。一方、関西の正食協会「MUSUBI」誌には隔月おきに「桜沢セレクション」として桜沢先生の著名本24冊程の紹介文を連載中。

安藤 耀顔/あんどう ようがん

1949年神奈川県生まれ。学生時代に桜沢如一を知る。日本CI協会の復刻版を含めてその著作を収集しつつ桜沢研究に没頭。半年間、各地の健康学園を含めて大森英櫻先生のほとんど全ての講義を受講。桜沢の面白さ、深さ、広さを確認。1982年、食を知るには土からと新潟県新井市の最も雪の厳しい小さな山村にパートナーと移住。安藤昌益、ガンジー、桜沢、法然、親鸞などを研究。子供の出産を機に十日町市の山村に移り、街で働きながら、井筒俊彦のイスラーム、ユダヤを含む「東洋哲学の共時的構造化」の方法を学び、桜沢如一思想批判の視座を得る。2012年末沖縄に移住後、ベトナムの食養グループと縁ができ、七回訪越。桜沢のinterpreterとしてベトナム各地で交流。同志、友人多数。現在、同志の手によって重要な通信を多くの仲間に配信。折に触れて「桜沢如一論序説」(仮)を執筆中。

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