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【第9回】資料で振り返る桜沢如一の思想と生涯

※月刊「マクロビオティック」2021年9月号より転載
※第27回以降は「マクロビオティック ジャーナル」にて連載中

第9回:壮年期③

ナビゲーター:高桑智雄(桜沢如一資料室室長) 協力:斎藤武次、安藤耀顔

何度目かの花の都パリ

今回紹介する資料は、1929年( 昭和4年)8月にフランスのパリ郊外、シェヴルーズで開かれた「食物改善・平和研究第6回国際キャンプ」でコック長を買って出て、食養コーヒー「マルト」をこしらえている桜沢37歳の貴重なスナップです。

桜沢はこの大会に集まる西洋人たちに自身の食事療法を試みると、それが評判を生み、指導を求める人で忙殺されるほどになりました。ところが桜沢は、食事療法を求めてくるたくさんの人々を振り切ってパリへ帰ってすぐ宿を替え、住所を分からないようにしてしまいました。なぜ桜沢は、せっかくのフランスでの成功のチャンスを掴みかけたのにこのような行動に出たのでしょう。それは、桜沢の今回の渡仏の目的が、「大衆を目的に療法を広めたり、金をもうけたりすることではなく、もっと大切な事業」があったからなのです。

この夏の国際キャンピングの4ヵ月前の春に、桜沢は花の都パリの土を踏みます。今まで貿易商や実業練習生として何度かパリを訪れていましたが、今回はその方法も目的も何もかもが違う悲壮な覚悟での渡仏だったのです。

フランスの桜沢如一

 

渡欧の本当の目的とは?

桜沢は1924年( 大正13年)に貿易商を辞め、東京に出て食養会の事業に一身を投じてきました。「食養雑誌」の編集、自身の著作の発表、全国での講演会など八面六臂の活躍の中で、会員が400名だった食養会は2000名までに増えていきました。しかし桜沢はここで突然、食養会での活動に区切りをつけて自身の信じる新たな道へと進むことを
決心します。それは桜沢にとって、「さらに進んで今一層食養道のために大きな仕事をする」ことで、「自ら西洋科学の本陣に乗り込んで東洋医道の優秀さを彼の地の人々に承認せしめること」だったのです。

この桜沢の大方向転換は、せっかく盛り上がりを見せてきた食養会の周辺からは、身勝手な行動であると大きな非難を受けることになります。「西洋人を救うより、まず日本人を救え」「もっと食養会のために働け」「自分の名誉を得ることに汲々たるより、国民を救うために日本に止まって働け」「日本の大家医学者生理学者と対論し、彼らを反省覚醒せしめよ」などの多くの保守的な非難に対して、桜沢は堂々とそれら全てのために、自分の渡欧がますます必要であると豪語します。

つまり桜沢には、周囲の人々には見えていない確信があったのです。桜沢はこの時すでに石塚左玄の伝記を編み、食養学の体系を完成させる中で、そこに脈々と受け継がれる「日本精神」が東洋哲学の最高峰の精神であり、貿易商として直に触れてきた西洋の人々の精神のあまりの単純さに比べて、遥かに優秀で奥深いものであることに気づいていきます。しかし時代は、その浅薄な西洋精神を土台とした物質の世界しか扱わない科学や医学が怒涛のように日本に
流れ込み、その一見絢爛たる物質文明に目がくらんだ日本人はついに日本精神を捨てて、今や西洋精神の植民地に成り下がろうとする始末だったのです。そこで桜沢は日本人の目を覚ます事より、押し寄せる大波の大本である西洋科学の本陣に乗り込んで、逆に東洋、そして日本精神の爆弾を落とし、西洋社会にその優秀さを知らしめようとしたのです。

また、それはどんどん深刻さを極める世界情勢の中、陽性である西洋の物質社会と陰性である東洋の精神社会が引き合い、大きな対立と衝突の危機が迫る瀬戸際に、西と東のお互いの理解を少しでも深め、対立を調和へと導く仲介者としての使命もありました。そして、桜沢は貿易商としての長年の渡航経験や語学が堪能であり、日本精神の真髄である食養を実践、研究してきた自分こそが西洋社会へ「日本精神」を輸出する役目を担うべきだと確信したのです。
そして、ちょうど桜沢はその頃、私生活においては一家離散して独り身になっており、食養会においてもある程度の盛況は取り戻したが、生来の強引な手法が禍したのか、経営的には成功とはいえない結果が見えていました。そんなさまざまな要因の中、桜沢にとって今この瞬間が心機一転新たな世界へ飛び出す絶好のタイミングだったのかもしれません。そして1929年(昭和4年)4月、桜沢は自身にとっての西洋の入り口であるパリを目指すことになるのです。

 

全ての退路を断っての覚悟

桜沢は今回の渡仏にあたって貿易商や実業練習生の時のような船での旅ではなく、シベリア鉄道での14日間1万4000キロの大陸横断という最も過酷な旅に挑戦します。しかもその旅費は、自分の蔵書数千冊、家財道具一切を売り放ち調達したものでした。つまり、全ての退路を絶って、一番過酷な旅の方法を選択することで、今回の行動に対する悲壮な覚悟を表明しているわけです。しかも食費は八十五銭( 当時の大卒の初任給が四、五十円)で、玄米のほし飯二升、鉄火味噌百匁、ごま塩二合、ごま油二五グラムを用意したのみ。旅の途中、同志からにぎり飯などの差し入れがあったものの、一日二食の少食で、最後は青カビを落としながら食いつないでパリへ到着しました。

パリに到着してからも、桜沢の財布には半月の生活費にも満たない200円しか残っておらず、暖房もない安い屋根裏部屋を借りて、木箱を机代わりにタイプライターを打ち、鍼灸や華道、柔道、俳句、盆栽、造園技術などの紹介論文をフランス語で書いては、各方面の雑誌社へ売り込んでいきます。しかし、そう簡単には売れるわけもなく、毎日電車賃を節約し、広いパリを歩き回り、足を棒のようにして疲れて帰ってきては、安い野菜とパンで 食事を済ませたり、何も食べない日もあったそうです。

そして季節は夏になり、パリ郊外、シェヴルーズで開かれた「食物改善・平和研究第6回国際キャンプ」に参加する機会を得て、それを転機に桜沢のフランスでの活躍が始まるのです。

著者プロフィール

高桑智雄/たかくわ・ともお

桜沢如一資料室室長。
1970年生まれ。2001年に日本CI協会に入社し、桜沢如一の陰陽哲学に感銘を受ける。
故・大森英櫻のアシスタントを担当した後、フリーランスとして独立。
2011年より桜沢如一資料室の立上げ、運営に携わる。
編集・執筆に「マクロビオティックの陰陽がわかる本」「マクロビオティックムーブメント」」など。2015年発行の人気書籍「マクロビオティックの陰陽がわかる本」の編集者であり、 月刊マクロビオティック・コラム「Café de Ignoramus」連載中。

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