【第14回】資料で振り返る桜沢如一の思想と生涯
※月刊「マクロビオティック」2022年2月号より転載
※第27回以降は「マクロビオティック ジャーナル」にて連載中
第14回:壮年期⑧
ナビゲーター:高桑智雄(桜沢如一資料室室長) 協力:斎藤武次、安藤耀顔
食養会の再建と無双原理への傾倒
今回紹介する資料は、1937年( 昭和12年)から1939年( 昭和14年)の間に撮られた京都での食養会全国大会の集合写真です。桜沢は1935年( 昭和10年)に帰国し、盧溝橋事件、そして日中戦争が勃発する最中、会員500人までに落ち込んでいた食養会の再建に乗り出します。
フランスから持ち帰った超小型飛行機「プー・デュ・シェル」の特許権の売却により得た私財を元に、1937年( 昭和12年)に、麻布田村町四丁目に三百坪の敷地のある3階建てのビルを借りて食養会本部とし、事務に20人、医務部に20人、代理部に10人の陣容を擁し、桜沢は秘書を3人おいて運営にあたりました。3階は「瑞穂病院」と名付けられ、来訪者は毎日300人もあり、食養会の歴史上空前の活気に満ち、その結果、機関誌「食養」の購読者は一万人を超えていきます。
この写真は、そんな食養会の盛況を伝えると共に、当時の食養会のパワーバランスを明確に現しています。食養会全国大会の写真は他に数枚を資料室で保存していますが、そのどれもが中心に桜沢が座しています。そして、食養会本部の旗が掲げられると共に、必ず「無双原理高等講習会会場」の看板が掲げられているのです。つまりこの当時の食養会は、名実ともに桜沢が最高権力者として活動を推進していたと同時に、思想的にも石塚左玄の食養思想の普及に加え、桜沢がフランスで確立した「無双原理」という桜沢思想の色がより強くなっていたことを教えてくれるのです。
しかし、食養会はあくまでも石塚左玄の「化学的食養理論」を研究・普及する団体です。桜沢にとって「無双原理」は、世界で石塚の食養理論を説明するために必要な根本原理であるのですが、化学や医学に関わる医療系の会員にとっては、それを理解することは難しく、反発もあったことは想像に難くありません。おそらく桜沢もその辺は理解をしていて、1935年( 昭和10年)の帰国時には機関誌「食養」と分ける形で、別冊月刊誌として「MUSUBI( むすび)」を創刊するなど、「神ながらの皇國の道の精神を無双原理という形で世界に普及する仕事」という自分のライフワークと食養会の公的事業とは、ある種棲み分けをしようという姿勢が垣間見えていましたが、それも桜沢の食養会での権力が増す中で、曖昧になっていったと考えられます。
メジャー出版社から出版された二冊の本
桜沢は食養会の再建と共に、旺盛な出版活動も開始します。1936年(昭和11年)には「身土不二の原則」、「根本無双原理『易』」、「P.U. 中国四千年史」など、1937年( 昭和12年)には「家庭食養読本」、「西洋医学の新傾向<アランジイ著・翻訳>」(昭和6年の「西洋医学の没落」の改題)、「保険社会省の指導原理と『根本無双原理』」など、1938年(昭和13年)には「自然医学」「健康の六大条件」「食養人生読本」など、食物療法の理論書、無双原理の社会への応用、東西の比較文明論など桜沢思想の土台を形成する研究がこの頃活発に進められます。
そんな中で、食養会の再建にも大きな影響を与えた二冊の出版がありました。一つは1938年( 昭和13年)8月に出版されたノーベル生理学・医学賞を受賞したフランスの医師、アレクシス・カレルが著した「人間~この未知なるもの」の桜沢による日本語翻訳本です。もう一つは1939年( 昭和14年)3月に出版された「新食養療法」です。この二つの本が、他の本と一線を画すのは、その本が出版された出版社です。桜沢の当時の本はあくまで食養会や個人での出版であるのに対し、なんと前者は「岩波書店」、後者は「実業之日本社」という当時でも日本有数のメジャー出版社から刊行されたのです。
岩波書店は1913年( 大正2年)創業で、夏目漱石の「こゝろ」の刊行から日本の出版界の歴史を作った出版社です。1897(明治30)年に創業した実業之日本社は、「日本少年」や「婦人世界」を創刊し、実業本の大手として現在に続く出版社です。当時桜沢は、久邇宮家、伏見宮家、松平家、徳川家などの要人の健康指導などを積極的に行い上層階級へのコネクションを密にしていたので、その繋がりからこのような大手出版社からの出版にこぎつけたのかもしれません。
その結果、「人間」は30版を重ね知識階級の目にとまり、「新食養療法」は大当たりして60版を重ね、この二冊で会員は8000人に激増し、桜沢は多額の資金を得て、食養会の運営に当てることができました。その後の桜沢の一生の出版活動の中でも、この二社からの出版は特例で、当時の食養会の運動がいかに一般社会からも注目されていたことが窺われます。
また、この「人間」や「新食養療法」には、「不老長寿法」のフリガナとして「マクロビオチック」の用語が初めて使われます(初出は1938年「自然医学」)。桜沢思想を「マクロビオティック」という用語で括ることができるのかは今後の議論となりますが、この昭和10年代の初頭から昭和16年の「宇宙の秩序」発表まで、桜沢思想の劇的な発展期であったことは間違いないでしょう。
著者プロフィール
高桑 智雄/たかくわ ともお
桜沢如一資料室室長。
1970年生まれ。2001年に日本CI協会に入社し、桜沢如一の陰陽哲学に感銘を受ける。
故・大森英櫻のアシスタントを担当した後、フリーランスとして独立。
2011年より桜沢如一資料室の立上げ、運営に携わる。
編集・執筆に「マクロビオティックの陰陽がわかる本」「マクロビオティックムーブメント」」など。2015年発行の人気書籍「マクロビオティックの陰陽がわかる本」の編集者であり、 月刊マクロビオティック・コラム「Café de Ignoramus」連載中。