トークセッション 「月刊マクロビオティックの原点を探る」前編
月刊「マクロビオティック」2023年3月号より転載
斎藤武次(元MI生・桜沢如一研究家)× 安藤耀顔(桜沢如一研究家)
× 高桑智雄(桜沢如一資料室室長)
高桑:「月刊 マクロビオティック」が2023年3月号をもって紙媒体での発行を終了することになり、以後、インターネット上で会員登録をすれば読める電子版という形で、季刊誌「マクロビオティック ジャーナル」として生まれ変わることになりました。月刊誌は今号で1026号ですが、1948年8月に創刊した「世界政府」第1号から受け継ぐ歴史は途絶えることなく、新しい形で継続することになります。
ですが75年にも及ぶ紙媒体での歴史が終わるわけです。そして昨年、資料室の活動の中で、幻といわれていた「世界政府」第1号の実物を斎藤武次さんから提供していただいたことをきっかけに、安藤耀顔さんを中心に桜沢思想における戦後の展開史が活発に議論されました。そこでこのタイミングで、桜沢如一研究の第一人者であるお二人をお迎えして、「世界政府」から「世界政府新聞」、「新しき世界へ」、そして「月刊 マクロビオティック」と引き継がれて来た歴史を振り返っていただき、月刊誌の意義を語り合い、電子版という新しい形で桜沢先生の意思をどう継いでいくかを探っていきたいと思います。
それでは最初に、創刊号である「世界政府」という小冊子が発行された戦後、桜沢先生の活動がどのような形で始まったかについて、それぞれの見解をお聞きかせください。
戦後の桜沢先生の活動
斎藤: 小林類蔵さんという方が、戦後、刑務所から出た桜沢先生を最初に引き取ったのです。あの時は本当に大変な時期で、小林さんのご自宅が仮の事務所という形になったのですね。そこで三部作(「カレル『人間』解説」「天国の鍵」「人間革命の書」)を発行されたり、雑誌「ル・コンパ」の出版が始まりました。そこで先生の本来のPU(Principe Unique =無双原理)に対する考え方が前面に出てきたのではないですかね。それは同時に戦後の新しい世界を作ろうという盛り上がりだったと思います。
高桑:敗戦を機に桜沢先生は解き放たれたかのように活動し始めて、その中心がPUの普及だったということですね。
斎藤:桜沢先生からすれば、この時がチャンスというか、これまでの食養的な考え方だけではなくて、もっと別なものに気づいてしまったのです。確たる食べ物を通して、精神と肉体を健康にすれば幸せになるという単純なものではない、と私は感じていますね。
高桑:小林さんのご自宅で設立されたのが、日本CI協会の前身といわれる真生活協同組合ということでしょうか?
斎藤:ちょうど組合運動が組織化されていた時期だと思います。桜沢先生は単なる組合ではなくて、この運動は柱が一本なければいかんということで、その基盤になるのが世界政府だったのだと思います。
高桑:組合から真生活協会、世界政府協会と発展していくのですね。桜沢先生の思想を普及するための媒体としては、戦後、どのような流れがあるのですか? 最初は「むすび」からですよね?
安藤:「むすび」は戦前から出していましたが、桜沢先生が捕まるのを覚悟で「PU経済原論」、V1といわれる「心臓を入れ替える法」、そして最後のV2「永遠の子ども」を書いていた頃は「ヒノハル通信」という形で会員に送っていた
のです。「むすび」が98号まで、それから「ヒノハル通信」が99~111号までかな。
1944年で出版は終わっているのですが、長坂署の中で「ナゼ日本は敗れたか」を書き始めて、出所後いきなりまた「むすび」を出し始めたのです。114号は10月1日発行です。ということは、出てからすぐに準備したのですね。
高桑:8月15日に終戦を迎えて、確か出所は23日頃でしたよね。
安藤:そう、しかもタイトルを「MUSUBI」とローマ字化して、それを中心にまず宣伝活動と、それから会員の確認をやりながら、すでに10月6日から10日間、PU大学を始めているのですよ。本当に休む暇もない。署で目と足をやられましたから、大変だったと思うのですけど。媒体としては、まず「MUSUBI」を119号まで発行し、途中で「ル・コンパ」の発行を始めました。何号かの「MUSUBI」と重なっている時期があって、それから「ル・コンパ」に切り替えて、最初はA4版の形で始めたのですね。
高桑:「ル・コンパ」はどんな内容だったのですか?
安藤: 戦争を自分なりに総括し、これからは「Englishspeakingpeople の時代」ということ、そして「ANGRO-SAXON SUPERIORITY」などです。戦前の会員は、それでだいたい皆元に戻って来るのです。最初は外国情報などを皆で共有するところから始まったみたいです。桜沢先生は当時すでに「LC(レーバー・カレッジ)」を作るとかしていたので、若い人たちが集まってきていますから。
高桑:そして「ル・コンパ」は、理論雑誌という形で発展していくのですね。それに対して1949年の「サーナ」は医療系の雑誌として創刊したという考え方でよろしいですか?
安藤:桜沢先生の言葉では、病気の人はまず「サーナ」を読んで自分の病気を治し、それから家族を健康にする。それを卒業した後に「コンパ」に入らせる、という考え方だったのですね。
高桑:なるほど。そこで、1948年8月に「世界政府」が小冊子として創刊するのですけれど、その経緯を教えてください。
「世界政府」創刊号の発刊
安藤:これは僕の勘ですけれど、桜沢先生は世界の情報を、ラジオまで使いながらいろいろ集めていたのです。そこに世界政府(世界連邦)関係の情報ももちろん入っていたと思うのです。
当時、僕も知らないようなアメリカの雑誌も結構あったらしくて、それと米軍の新聞などをみんな読んでいたみたいです。その中の雑誌の一つが「一つの世界」ですね。これは、戦前からずっと世界連邦をうまく立ち上げようと運動していた稲垣守克が中心です。
それからもう一人は、憲政の神様、尾崎行雄も世界連邦主義者です。たぶん桜沢先生は、これを読んで世界政府運動というものがあり、1950年にジュネーブで大会があることを知ったのだと思います。世界を8つに分けてその地区からそれぞれ代議員を出そうということが、これに載っていたのです。
桜沢先生の言葉によれば、青年が海外に出る大きなチャンスだと。だからそれを上手く利用して、「ジュネーブへ、ジュネーブへ」と、最初は「コンパ」第7号で呼びかけるのです。それを「世界政府」の創刊号にもそのまま入れています。
稲垣守克とはおそらく戦前は繋がりがなかったと思うのですが、連絡を取って最初は桜沢先生と二人で世界政府運動を日本で立ち上げました。そしてその盛り上がりの中で、1948年8月に「世界政府」というB6判44ページの小冊子を発行したのです。9000部出したそうですが、随分売れたらしいです。
高桑:学生の盛り上がりもちょうどそこですね?
安藤:そうですね。だから基本的に「世界政府」は、1949年4月の第2号からは新聞形態になっていきますけど、主体としてやっていたのは学生たちで、桜沢先生は顧問みたいな感じですね。
高桑:その時代、世界的に世界政府運動が盛り上がりつつあった時代で、そこに海外へ青年たちを派遣するのにちょうど良い役割をしてくれて、そういうのが合体して桜沢先生の世界政府運動が生まれ、その運動のパンフレットとして最初に「世界政府」が発刊され、それが新聞形態となっていくわけですね。
「世界政府」が「世界政府新聞」へと発展
安藤:そうですね。世界政府運動は、国境を無くして一つの政府を作るということ。それは当時のチャーチルも、ガンジーも、シュバイツァーも、アインシュタインも言っています。だから、その流れに沿って世界政府を作っていくという社会的な運動です。
まずは「サーナ」で象徴される自らの健康と家族の健康ですね。それからそれを補完するあるいは、それを基にし様々なことに応用するPUを「コンパ」で勉強していく。それをさらに真生活として社会的に応用していく。つまり究極の目的として、世界恒久平和というものを目指すという一つの段階としての世界政府運動なのです。それを正食に縁があって入った人たちが主体となってやっていき、紙媒体にする。その一番良い形が新聞です。あの頃は今みたいに便利ではないですから。
高桑:「コンパ」は正食関係やMI生など、桜沢先生の閉じられた世界観の中で展開していたけれど、「世界政府新聞」はもっと一般の人たちに広げるものですね。
安藤:その中で一番大切なのは、外側から社会的に世界政府を作り、世界憲法を作るだけでは片手落ちで本当の平和はこない。正食とPUを取り入れなければ、本当の世界政府は出来ないし、世界平和はこないということです。
高桑:一般的な世界政府運動にそこの部分が足りなかったと桜沢先生は考えていましたか?
安藤:そうです。足りないというよりも、そもそものベクトルが違うのですね。
高桑:まず1946年に「コンパ」が始まって、1948年に「世界政府」、1949年に「サーナ」が創刊されましたが、「世界政府」は2号からは新聞形態になって、大体毎月発行されたのですか?
斎藤:最初の頃は月1~2回だったと思うのですけれど、3回という時もありました。
高桑:その「世界政府新聞」に関して斎藤さんは編集にも関わっていた訳ですよね。その頃はどのような形で編集されていて、どんな形で一般の人たちの手元に届けていたのですか?
斎藤:私が1953年にMI(桜沢が主宰していた塾)に入ってちょうど半年ぐらい経った時は、道場長が箱崎さんという方でした。朝日新聞から来ていた人なのですけれど。その後を継いだのがガリマールさんという方で、私は何回か指導を受けましたが、ちょうど半年くらい経って編集の場所へ回されたのです。151号だったですかね。私は裏面の担当で、京都のプランタンさんとクリマックさんが表面担当で、先輩と二人で半年間くらいやっていましたね。
新聞の売り子は5~6人いました。私が憶えているのは、後に久司道夫さんの奥さんになるアベリーヌさんが300部も売ったとか、菊池富美男さんの奥さんになるベルナデットさんも350部売ったと言われています。
高桑:1日でですか? すごい。
安藤:500って聞きましたけど…。
斎藤:520何部売ったのが、まだ19~20歳ぐらいの女の子でしたね。
高桑:では、基本的には、MI生たちが手売りで新聞を売っていたのですね?
斎藤:私もたまに売ってみようと行ったことはありましたけどね(笑)。
高桑:「世界政府新聞」にはどのようなことが書かれていたのですか?
「世界政府新聞」の魅力
安藤:いくつかの柱に分けられるのですけれど、最初に、日本の敗戦は一体何を意味しているのか、ということです。日本の敗戦に至るまでの過去の歴史、いかにひどかったかということ、それから当時の日本の状況です。もうひとつは世界各地の世界政府運動の情報をできるだけ手に入れて、そこから例えば良心的な兵役拒否だとかに関しても結構取り上げたのです。
あとはジュネーブへ行く目的のために若い人に対して、LCとかMIで語学などすごく教育していたので、青年に対して外国に行くという情熱を吹き込むということ。そして、MIやLCにいる人たちがどのような動きをしたかを学生自身に書かせるのです。学生たちが数寄屋橋で断食したり、その一年後にはまた大阪や広島などで断食をしたりということが、創刊号に出ています。その中で、誰がまずジュネーブに行くかを競わせるわけです。それで名乗りを挙げたのが久司先生ですね。
よく分かってきたのは、「世界政府新聞」と「コンパ」という2つの紙媒体は連動しているのです。「コンパ」では、久司先生がどういう形でアメリカへ渡ったのかの様子は分かるのですけれど、どういう経路で久司先生のアメリカ行きが決まったかについては、「コンパ」には全然書かれていないのです。ところが、「世界政府新聞」には赤裸々に書かれています。ノーマン・カズンズと1対1で話をして、ギャランティをもらって、60万円の渡航費まで貰ったとか、育った地である秋田で訴えかけてお金を集めてくるとか。それで、第1号のキャラバンとしてアメリカ行きが決まる経緯が「世界政府新聞」でわかるのです。
第一次キャラバン、第二次、第三次、第四次…。それに対する桜沢先生の反応だとか、今読んでもすごく胸躍ります。
「世界政府新聞」24号、もうこの時にはローマ字で「SEKAISEIHU」になっていますね。
高桑:今回「世界政府」の創刊号が見つかって、安藤さんは「世界政府」をあらためて集中的に研究されたそうですが、桜沢思想において世界政府運動および「世界政府新聞」の意義や魅力はどのように感じますか?
安藤:正食から始まってPU、それから真生活。その究極の目的は、桜沢先生が若い時からずっと追及してきた世界恒久平和です。
その一つのステップとして世界政府を樹立する。それが世界的な流れの中で、それを上手くキャッチして活動していたわけですね。
高桑: 総決算的な意味合いが世界政府運動にはあったと。
安藤:そうですね。桜沢先生の言葉で言えば、「サーナ」、それから「コンパ」で理論を固めて、それから「世界政府新聞」になるという形ですね。簡易な媒体で出して、まず日本人の意識を変えていくということがすごく重要なことでした。
また、桜沢先生にとっては「世界政府協会会長」という肩書にメリットがあったというのもあります。例えばシュバイツァーとかいろんな要人に会う時に、一つの権威として、肩書が非常に役立つと。
高桑:桜沢先生は肩書要らずの人じゃないですか(笑)。それが世界政府運動に限っては、やはりリアルな社会的活動だったということですよね。
安藤:だからこの「世界政府新聞」には、必ず会長と書く(笑)。
高桑:斎藤さんは、世界政府運動の意義はどのように捉えますか?
斎藤:私がいた時、「世界政府・真生活協会」という名前だったのです。「真」というのは、桜沢先生が小林さん宅に身を寄せた時代から、単なる新しい生活ではないことを強調しているのです。
そこが桜沢先生の真骨頂ですよね。桜沢先生が10年20年も前からフランスに行って、いろいろな外国人と交流する中で、東洋的なマコトの意味合いが分かってもらえる人が、ほとんどいなかった、と書いていますね。また、「コンパ」は哲学過ぎて難しいと反発するグループがあって、会議までやっているのです。
桜沢先生がそれに対して、なぜ分かってくれないのかな、ということをいろんなところで書いていますね。桜沢先生は、そのマコトの無双原理が入った世界観がなければ、本当の意味での世界政府にはならないんだ、ということを言っているのではないでしょうか。
高桑:「世界政府」と「真生活」という2つがあって、成り立っているということですね。
安藤:真生活という言葉は戦前からずっと使っていましたね。一説によると高田集蔵がその名前を作ったらしいですけれど。
戦前に「新生活」というキャンペーンがあったのです。先生が新井署に入っている時に歌を作っています。「陰陽一日、食養三年、真生活は七、九年、無双原理は一生よ」というやつですね。食養は、自分の身体を健康にし、家族を健康にし、さらに病人を治す。そこまではどうも三年の中に入っているのです。その後もさらに社会的な活動をしていく、そこに真生活の意義があるのです。
プロフィール
斎藤 武次/さいとう たけじ
1935年1月、埼玉県生まれ。19歳の夏、桜沢如一主宰の「メゾン・イグノラムス(MI)」へ入所。入所半年後には念願の世界的平和運動「世界政府」新聞の編集に携わる。その後は一旦地元に戻って、県内の自動車販売会社に勤め、会社を辞めて独立後の35歳の時には私設「モニコド文庫」として、再びマクロビオティック関連本と雑誌の収集と整理に専念、その後2008年2月には手造り本「知らなかった國よ」の第1刷を平成堂より出版。2015年3月には同書を文庫化して文芸社より出版。2011年より日本CI協会「桜沢如一資料室」に参加、その後は主に執筆活動に専念。ここ2年の間にマクロビオティックの研究本として、食養の始祖ともいわれる石塚左玄、身土不二の西端学、そして桜沢創見によるマクロビオティックのモノの見方を論考した「マクロビオティックの世界観」巻1、巻2、巻3の3冊を出版(あうん社)。また、この度は文芸社から「食べ物から見える世界」と言うエッセイ集を出版するチャンスをいただきました。一方、関西の正食協会「MUSUBI」誌には隔月おきに「桜沢セレクション」として桜沢先生の著名本24冊程の紹介文を連載中。
安藤 耀顔/あんどう ようがん
1949年神奈川県生まれ。学生時代に桜沢如一を知る。日本CI協会の復刻版を含めてその著作を収集しつつ桜沢研究に没頭。半年間、各地の健康学園を含めて大森英櫻先生のほとんど全ての講義を受講。桜沢の面白さ、深さ、広さを確認。1982年、食を知るには土からと新潟県新井市の最も雪の厳しい小さな山村にパートナーと移住。安藤昌益、ガンジー、桜沢、法然、親鸞などを研究。子供の出産を機に十日町市の山村に移り、街で働きながら、井筒俊彦のイスラーム、ユダヤを含む「東洋哲学の共時的構造化」の方法を学び、桜沢如一思想批判の視座を得る。2012年末沖縄に移住後、ベトナムの食養グループと縁ができ、七回訪越。桜沢のinterpreterとしてベトナム各地で交流。同志、友人多数。現在、同志の手によって重要な通信を多くの仲間に配信。折に触れて「桜沢如一論序説」(仮)を執筆中。
- 投稿者: ci-kyokai
- 歴史, 月刊マクロビオティック
- 桜沢如一, マクロビオティック