【第6回】資料で振り返る桜沢如一の思想と生涯
※月刊「マクロビオティック」2021年6月号より転載
※第27回以降は「マクロビオティック ジャーナル」にて連載中
第6回:青年期③
ナビゲーター:高桑智雄(桜沢如一資料室室長) 協力:斎藤武次、安藤耀顔
モダンガールとの結婚
人生の一大転機といえば結婚ですが、桜沢の最初の結婚は当時としては比較的遅い28歳の頃でした。熊沢商店でメキメキと力をつけていく頃に出会ったのが中西栄子という桜沢曰く、「自分で見つけた当時流行の新しい女」でした。古風を重んじる父と継母の大反対をけちらして結婚したそうなので、桜沢にとっては栄子に「新しい女」のさきがけ
だった母・世津子の面影を見たのかもしれません。栄子は、フェリス女学院を出た英語が堪能でタイプライターが得意な「モダンガール」で、桜沢は栄子に自分の活動も手伝わせ、西洋風のパートナーとして期待したのかもしれません。
今回紹介する資料は、1922年(大正11年)頃の桜沢ファミリーの写真です。中央左が栄子で、右前が父・孫太郎と継母・マサです。そしてマサに抱っこされているのが大正10年に生まれた桜沢の最初の子である孝子です(一番左は女中)。その後、栄子との間には、信子、忠一、信一と2男2女をもうけ、同時に熊沢商店を独立して自分の会社を起業していくわけですから、男としての自信が桜沢の表情に漲っているようです。
見逃されがちな桜沢のローマ字運動
この頃の桜沢は本業である貿易商での多忙の中、食養の実践と共に熊沢商店に併設していた食養会支部での食養食品の販売や「食養雑誌」への投稿などの活動に益々のめり込んでいきますが、ここで桜沢の思想展開で見逃してはならない重要なもうひとつの活動があります。それは、ローマ字による大和言葉のよみがえり運動です。
桜沢は田中舘愛橘や田丸卓郎のローマ字論に共鳴して「N・R・S(日本のローマ字社)」の活動に参加して、1919年(大正8年)には自身でローマ字文芸雑誌「YOMIGAERI 」を創刊します。
しかし、桜沢のローマ字運動は単に日本字のローマ字化ではなく、大和言葉をよみがえらせる手段としてローマ字を使うということでした。桜沢は「美しい、床しい、優しい、音楽的な雅な大和言葉を、忘れられた日本民族の言葉を蘇生させたい。それは正しい祖先の食物を取り戻したいのと同じ」と語っています。
年代 | 出版物 |
1919年(大正8年) | 「YOMIGAERI」創刊(月刊・6年間) |
1920年(大正9年) | 「NAYAMI NO HANA(なやみの花)」Ch.Baudelaire訳詩集 |
1921年(大正10年) | 「TE NO SUDI(手のすじ)」G.Rodenbach訳詩集 「ARARAGINO HANA(アララギの花)」Legend of Annam安南の伝説 「KURISUMASU NO KAIMONO(クリスマスの買物)A.Schnitzler戯曲 |
1923年(大正12年) | 「NIPPON SISYU-KOTOBA NO HANATABA」(日本詩集「言葉の花束」) |
青年期の後半は、食養の実践を深めていく中、桜沢の日本や東洋の伝統文化への傾倒が露わになっていきます。それは貿易商として直に西洋の文化を体験することによって、より対立的に明確化されていく時代です。
そして、壮年期には確信を持って食養を「日本精神」の根源と捉え、西洋の近代文明は左玄が指摘したごとく文明で
はなく物明であり、その根底にある西洋の哲学や精神を対立的に批判していくことになります。桜沢の長い出版活動の最初がローマ字運動であったことの意味は大きく、今後の調査研究が期待されます。
挫折を転機に変える精神
経済面、精神面ともに充実して猛烈な陽性さで活動する桜沢ですが、青年期の最後に大きな挫折を味わうことになります。それはせっかく立ち上げた「日本デブリ社」が一年余りで倒産してしまうのです。桜沢は「悪辣老獪の資本家の陰謀により事業を乗取られた」といいますが、当時は貿易商群雄割拠の時代で、現在のIT企業が無数に起業され、統合されては消えていくのと同様に小さな桜沢の会社も時代の波に飲みこまれる運命だったのでしょう。
しかし桜沢の人生において挫折は次のステップへの転機となります。桜沢は事業の失敗を機に、東京・中野に居を移して「食養会」と「日本のローマ字社」の活動に専念するのです。それは「食養原理によって示された道を進みつつ人類奉仕のために一生を捧げようとする決心」でした。
青年期の桜沢は若さと陽性さでビジネスと社会運動に猛烈に奔走し、徐々に社会運動家としてのパーソナリティーを強めていきます。そして本格的な桜沢思想を確立していく壮年期を迎えることなります。
著者プロフィール
高桑智雄/たかくわ・ともお
桜沢如一資料室室長。
1970年生まれ。2001年に日本CI協会に入社し、桜沢如一の陰陽哲学に感銘を受ける。
故・大森英櫻のアシスタントを担当した後、フリーランスとして独立。
2011年より桜沢如一資料室の立上げ、運営に携わる。
編集・執筆に「マクロビオティックの陰陽がわかる本」「マクロビオティックムーブメント」」など。2015年発行の人気書籍「マクロビオティックの陰陽がわかる本」の編集者であり、 月刊マクロビオティック・コラム「Café de Ignoramus」連載中。