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【第4回】資料で振り返る桜沢如一の思想と生涯

※月刊「マクロビオティック」2021年4月号より転載
※第27回以降は「マクロビオティック ジャーナル」にて連載中

第4回:青年期①

ナビゲーター:高桑智雄(桜沢如一資料室室長) 協力:斎藤武次、安藤耀顔

学校を卒業して社会の海原に漕ぎ出だした桜沢の青年期は、大正時代の15年間と見事に一致します。「大正デモクラシー」や「大正ロマン」という時代的背景の中で、桜沢は当時最先端の職業であった貿易商社へ就職、転職を繰り返し、欧米への渡航経験を積んでいわゆる「モボ(モダンボーイ)」として成長していきます。そして私生活では最初の結婚と子どもの誕生を経験して公私ともに充実した社会人となっていきます。一方で少年期からの身体への不安や文学、思想、哲学、宗教などへの精神的探求心が桜沢の生涯を大きく変える「食養」との出会いに導きます。

桜沢の青年期は、ビジネスマンという現実世界と食養という理想世界がせめぎ合い、最終的にはビジネスマンとしての挫折と交差しながら食養という理想世界を一生涯のライフワークとしていくことを決意する人生最大の転換期といえます。

年代 歳  桜沢の略年譜 出来事
1913年
(大正2年)   
21歳 京都市立第一商業学校を苦学で卒業。
神戸の南米輸出入商・滝波商店の小僧となる。
同時に神戸仏語学校第2学年に入学。
「森永ミルクキャラメル」が発売
1914年
(大正3年)
22歳 大戦のため滝波商店閉店により失職。
4月にフランス領事シャルパンティエ氏の推薦により英ウォーム社のチャーター船「万栄丸」事務長となり、第一次大戦中のインド洋、地中海へ初めての遠洋航海に出る。
第一次世界大戦勃発(~1918年)
1915年
(大正4年)
23歳 神戸貿易商・仲桐商店支配人となる。大戦景気
1916年
(大正5年)
24歳 社団法人食養会に入会。雑誌「食養雑誌」に投稿を始める。国産の軍用航空船 雄飛(ゆうひ)が飛行に成功
1917年
(大正6年)
25歳 貿易商社・熊沢商店神戸支店輸出部長となり、主に羽二重を輸出。隔年に欧米をまわる。ロシア革命
1918年
(大正7年)
26歳スペインかぜが大流行

最先端の仕事で社会人デビュー

1913年(大正2年)に商業学校を貧乏と病身をなんとか乗り越えて卒業した桜沢は、神戸の小さな南米貿易商であった滝波商店の直輸部に就職し、晴れて社会人となり、同時に神戸仏語学校第2学年に入学しフランス語の習得にも励みます。当時、貿易商といえば最先端の職業で、第一次世界大戦の勃発で世界的な品不足から日本は貿易を積極的に行い、その中心地が神戸港と横浜港で大小さまざまな貿易商社が興亡していました。いわば今の時代でいうところのIT企業のような勢いのある職業だったのでしょう。父親と継母の支配空間である古都京都から解放され、世界中の文物が集まる神戸でのモダンライフが始まるわけですから、青年桜沢もさぞワクワクしたことでしょう。

そして、滝波商店の閉店を機に、神戸仏語学校の校長であったフランス領事シャルパンティエ氏の推薦により英ウォーム社のチャーター船「万栄丸」事務長となり、第一次大戦中のインド洋、地中海へ、一年余りの初めての遠洋航海に出るのです。その後1917年(大正6年)に貿易商社・熊沢商店神戸支店輸出部長に落ち着くまでに小さい貿易商を転々し、貿易商としての経験を貪欲に積んで行きます。この貿易商としての経験こそが、その後の桜沢の一生の活動の土台となっていきます。桜沢のマクロビオティック世界普及は、生粋の学者や哲学者、宗教者とは一線を画く、貿易商としての「日本精神の輸出」という側面で捉えることもできるのです。

大正7年の桜沢如一

大正7年頃の桜沢

 

食養と出会ったのはいつなのか

今回紹介する資料は、1918年(大正7年)10月18日の26歳の誕生日にシナ海で撮られたとされるポートレートです。前年に熊沢商店神戸支店の輸出部長となり、当時日本の絹織物輸出の中心だった羽重を南米に輸出する事業に従事していました。

この頃桜沢は仕事の傍ら1916年(大正5年)に入会した「社団法人食養会(1907年に石塚左玄を会長として設立された食養普及団体)」の機関誌「食養雑誌」に投稿し支部の活動をしながら、日々食養の実践を徹底していたとされます。

そしてここで問題になるのが、桜沢はいつ「食養」に出会ったかということです。先行研究などの定説では「19歳の頃、結核でとてもダメだという状態になった時、たまたま図書館で石塚式食養法を読む機会があり、それを実行して20歳の頃には目に見えて健康を回復した」とされていますが、齋藤氏や安藤氏の最新の資料調査から、桜沢が食養に出会ったのはもう少し遅く社会人になってからの1916年( 大正5年)の24歳頃ではないかとも考えられるのです。

桜沢は学生時代に結核になりますが、ちょうど父親の失業からの貧しさから「ご飯とたくあんと梅干しくらいの質素な食事」しかできないのに、かえって身体は持ちこたえて残りの学業を修め、1913年(大正2年)に無事卒業して貿易商となります。しかし、日本中で最も欧米化された神戸、そして職業の中でも最も欧米に親しむ貿易商になり、自分で給料を稼げるようになると、再び母・世津子が信じていたオムレツ、パン、牛乳による栄養を摂るようになり、1915年(大正4年)の遠洋航海での東南アジアやインド諸港では熱帯果物を貪り、フランスでは有名料理店で金銭を水のように使うというように、滋養物をたくさんとることで健康になることを信じて生活をしていたのです。

桜沢の生活が一変するのは、1916年( 大正5年)に食養会の「西端學の化学的論文」を読んで食養会に入会した時からと思われます。桜沢がどうやって西端論文にたどり着いたのかは定かではありませんが、フランスなど西洋世界を体験するうちに西洋趣味に飽きがきて、すっかり日本趣味になったと回想しているように、文学、思想、哲学、宗教などの日本的な精神への探求の芽生えの中で偶然に出会ったのかもしれません。

桜沢は西端の食養への化学的あるいは科学的なアプローチに興味を持って食養会に入会し、自分の体で食養を実践することで少年期から続く身体への不安が解消され、学生時代の瀕死状態にあって「ご飯とたくあんと梅干しくらいの質素な食事」でかえって体は持ちこたえてしまった出来事への答えを得て、桜沢の食養への興味は確信へと変わっていったのかもしれません。

桜沢は22歳の頃、仏教大学のある先生に「人相は人格の発現だと思う」といわれ、自分の青白で険悪貧相という事実に何としても否定できなかったと語っています。もしその後24歳で食養に出会ったとする説が正しければ、必死の食養実践をして2年目の顔がこのポートレートということになるのです。

著者プロフィール

高桑智雄/たかくわ・ともお

桜沢如一資料室室長。
1970年生まれ。2001年に日本CI協会に入社し、桜沢如一の陰陽哲学に感銘を受ける。
故・大森英櫻のアシスタントを担当した後、フリーランスとして独立。
2011年より桜沢如一資料室の立上げ、運営に携わる。
編集・執筆に「マクロビオティックの陰陽がわかる本」「マクロビオティックムーブメント」」など。2015年発行の人気書籍「マクロビオティックの陰陽がわかる本」の編集者であり、 月刊マクロビオティック・コラム「Café de Ignoramus」連載中。

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